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【何に金や時間を使うのかを考えろ】お前の「金」や「時間」は、誰を、そして何を、豊かにしているのか?

2025年8月4日

その指は、未来をスクロールしているか、それとも“今”を浪費しているか

平日の朝、揺れる電車の中。 僕は、目の前の席に座る若い女性が、一心不乱にスマートフォンの画面をスクロールする姿を、ぼんやりと眺めていた。彼女の親指は、まるでそれ自体が一個の生命体であるかのように、滑らかに、そして機械的に、次から次へと短い動画を再生し、そして消していく。TikTokだ。

最初に断っておくが、僕は、この光景を批判したり、嘆いたりするつもりは、一切ない。 「若者はもっと本を読むべきだ」などという、陳腐な説教を垂れる気も毛頭ない。なぜなら、僕自身、電車に乗れば大抵はうたた寝をしているし、「役に立たないこと」にこそ、人生の豊かさが宿ると信じている人間だからだ。

しかし、その日、僕の心に浮かんだのは、そうした善悪の判断を超えた、もっと構造的な問いだった。 彼女が今、費やしている「時間」という、かけがえのない資源。そして、僕たちが日々、何気なく使っている「お金」という、社会への投票券。

それらは、一体、誰の懐を潤し、どんな社会を形作り、僕たちの未来を、どこへ導こうとしているのだろうか、と。

思考実験:二つの消費が描く、全く異なる経済圏

この問いを、もう少し深掘りするために、ここに二つの、対照的な「休日の過ごし方」を、思考実験として提示してみたい。

一つは、今、目の前で繰り広げられている「ショート動画を、2時間見続ける」という消費行動。 そしてもう一つは、僕が若い頃に夢中になった、「バイクで、2時間かけて高速道路を走り、パーキングエリアで缶コーヒーを飲む」という、今はもう過去となった記憶の中の消費行動だ。

ケースA:ショート動画の経済圏 - 富は“天上”に吸い上げられる

ショート動画の視聴は、極めて低コストで、受動的な娯楽だ。 僕たちがそこで支払っている通貨は、「お金」ではない。それは、僕たちの「アテンション(注意力)」と「時間」だ。

この通貨は、どう流れていくのか。 僕たちの視聴時間は、プラットフォーム(TikTokやYouTube)によって、広告主に売られる。あるいは、投げ銭機能などを通じて、コンテンツの制作者(インフルエンサー)に直接還元される。

その経済圏は、極めてシンプルだ。僕たちの時間は、ごく少数の巨大テックプラットフォームと、一握りの人気クリエイターの懐を、直接的に潤していく。

ここで、一つの社会課題が浮かび上がる。それは、富の、極端なまでの「集中」だ。僕たちが費やした時間の対価のほとんどは、国境を越え、シリコンバレーの巨大企業のサーバー維持費や、株主への配当へと消えていく。僕たちが住む、この地域社会に、直接的な経済的恩恵がもたらされることは、ほとんどない。

ケースB:ツーリングの経済圏 - 富は“地上”を循環する

一方、僕がかつて愛した、バイクでのツーリングはどうだろうか。 それは、比較的高コストで、能動的な娯楽だ。

僕が支払ったガソリン代は、ガソリンスタンドの店員の給与になり、石油を運ぶタンカーの船員の生活を支える。高速道路の料金は、道路を補修し、トンネルの明かりを灯し続ける、名もなき作業員たちの汗の対価となる。パーキングエリアで買った、たった一本の缶コーヒー代ですら、飲料メーカーの工場で働く人、トラックの運転手、そして、遠い国のコーヒー農家の、ささやかな収入へと繋がっていく。

そこには、無数の人々が関わる、複雑で、しかし確かな「経済の循環」が存在する。僕の消費は、僕自身の快楽のためであると同時に、この国の、この地域の、リアルな経済を、ほんの少しだけ、下支えしていたのだ。

消費とは、「どんな未来に投票するか」という、意思表明である

この二つのケースを比較して、僕が言いたいのは、デジタルが悪で、リアルが善だ、などという単純な二元論ではない。僕自身、こうして文章を書き、インターネットを通じて発信している以上、デジタル世界の恩恵を、誰よりも享受しているのだから。

僕が、本当に問いたいのは、これだ。 僕たちが日々、無意識に行っている「お金」と「時間」の使い方は、実は、「自分が、どんな社会に生きたいか」を表明する、極めて重要な“投票”行為なのではないだろうか?

  • ショート動画に時間を費やすことは、「グローバルなプラットフォームが支配し、価値がデジタル空間で完結する、効率的で、しかし富が集中しやすい世界」への、一票だ。
  • 近所の商店街で買い物をし、地元のレストランで食事をすることは、「顔の見える関係性の中で、お金が地域を循環する、非効率かもしれないが、多様性に満ちた世界」への、一票だ。

僕たちは、選挙の時だけ、投票用紙に未来を託しているわけではない。 僕たちは、毎秒、毎円、その指先と、財布を通じて、未来の社会の形を、選択し、投票し続けているのだ。

現代社会が生み出した、もう一つの“病”

そして、この「デジタルプランクトン経済」は、もう一つの、より深刻な社会課題を、僕たちに突きつけているように思える。

それは、「深い思考能力の低下」だ。 アルゴリズムは、僕たちの脳が最も喜ぶ、短く、刺激的で、分かりやすいコンテンツを、次から次へと供給し続ける。その結果、僕たちの脳は、長い文章を読んだり、複雑な問題をじっくりと考えたり、白黒つけがたい物事の機微を味わったりする能力を、少しずつ、しかし確実に、失っていく。

政治、経済、社会問題。僕たちが向き合うべき現実は、あまりにも複雑で、面倒で、答えが出ないものばかりだ。 その現実から目をそらし、指先一つで得られる、刹那的な快楽に身を委ね続ける。その先に、果たして、健全な民主主義や、成熟した社会は、存在するのだろうか。

僕たちは、誰の“養分”になるために、生きているのではない

この記事は、説教ではない。僕自身への、自戒だ。 動画を見るな、と言いたいのではない。ただ、考えてみてほしいのだ。

僕たちが、その指先で、無限に時間を溶かし続けている、その先に、一体、何が残るのか。 僕たちの内側に、何か、豊かさが積み上がるのか。 それとも、僕たちの時間は、ただただ、巨大なシステムの“養分”として、吸い上げられていくだけなのだろうか。

僕たちの時間は、有限だ。 その限られた資源を、どこに投資し、誰を豊かにし、そして、どんな未来を築くために使うのか。

その選択権は、いつだって、僕たちの手の中にある。

電車の中で、次にスマートフォンを手に取る時。 僕は、少しだけ、その指を止めて、考えてみたいと思う。

この一票は、本当に、僕が望む未来へと、繋がっているのだろうか、と。

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