人間関係

他人の「いいね!」が、僕の“人生”を殺していく。- SNSという名の“監視社会”で、自分を取り戻すための哲学

2025年8月11日

僕たちは、24時間営業の“ステージ”に立たされている

スマートフォンの画面を、親指でなぞる。 そこには、僕たちの心を揺さぶる、無数の「他人の人生」が、洪水のように流れ込んでくる。

友人の、輝かしい昇進報告。 同僚の、絵に描いたような家族旅行。 見知らぬ誰かの、完璧に整えられた、美しい暮らし。

その光景を見るたびに、僕たちの心には、賞賛と共に、チクリと小さな棘が刺さる。「それに比べて、自分はどうだ…」と。

かつて、「他人の目」が気になる場所は、学校や職場、近所といった、限られたコミュニティの中だけだった。しかし、SNSの登場によって、僕たちは、24時間365日、全世界の観客に向けて開かれた、巨大な“ステージ”の上に、強制的に立たされることになった。

常に誰かに見られ、評価され、比較される。その見えざる視線は、僕たちの思考を縛り、行動をためらわせ、魂を静かに疲弊させていく。

この記事は、そんな「他人の目」という名の呪縛から、あなた自身を、そして、かけがえのないあなたの人生を取り戻すための、僕なりの“闘争”の記録である。


第一章:なぜ、僕たちはこれほどまでに「比較」をやめられないのか

そもそも、なぜ僕たちは、他人と自分を比較してしまうのだろうか。 それは、僕たちの脳に刻まれた、古代からの生存本能に起因する。かつて、僕たちの祖先は、小さな部族(トライブ)の中で生きていた。その中で、「自分は、仲間から遅れを取っていないか?」「部族から、見捨てられないか?」と、常に他者と比較し、自分の立ち位置を確認することは、生き残るために不可欠なスキルだったのだ。

しかし、この古代のOSは、現代のSNS社会では、致命的なバグとなって、僕たちを苦しめる。 僕たちの脳は、いまだに、画面の向こう側にいる、世界中の何十億人もの人々を、かつての「部族の仲間」だと錯覚してしまう。そして、その全員と比較し、その全員から「劣っている」部分を見つけ出し、勝手に落ち込んでしまうのだ。

さらに、「炎上文化」が、この恐怖に拍車をかける。たった一つの不用意な発言や、他人と違う行動が、瞬く間に拡散され、見知らぬ大衆からの、無慈悲な石つぶての的になる。

他人の目を気にするな、と言うのは簡単だ。しかし、僕たちは、生物学的にも、社会的にも、「他人の目を気にせずにはいられない」ように、設計されてしまっているのである。


第二章:僕が「比較地獄」に囚われていた頃

偉そうに語っている僕自身もまた、かつてはこの比較地獄の、忠実な囚人だった。

30代前半。僕の頭の中は、「30代の男として、こうあるべきだ」という、社会が作り上げた理想像で、パンパンに膨れ上がっていた。

  • 持つべきモノ: それなりの地位を示す車、センスが良いと思われる時計。
  • 達成すべきコト: 同期より早い昇進、平均以上の年収。

僕の選択基準は、常に「他人にどう見られるか」だった。「僕が、心の底から何を望んでいるのか」という、最も重要な問いは、見栄と承認欲求の瓦礫の下に、埋もれてしまっていた。

その結果、どうなったか。 手に入れたモノは、一瞬の満足感の後に、さらなる渇望と、維持するための不安をもたらした。達成したはずの地位は、さらなる高みを目指す、終わりのないレースの、新しいスタートラインに過ぎなかった。

僕は、他人の人生の“エキストラ”を、必死で演じていた。 そこには、僕自身の物語は、どこにも存在しなかったのだ。


第三章:「自分」を主語にして生きる、という革命

この不毛なレースから、僕がどうやって降りることができたのか。 それは、ある日、僕が、人生におけるすべての問いの「主語」を、意識的に変えたことから始まった。

これまでの僕の問いは、常に「他人」が主語だった。 「“彼ら”は、僕をどう評価するだろうか?」 「“世間”では、何が正解とされているのか?」

その、すべての問いの主語を、僕は、「私」に置き換えたのだ。

  • 「“私”は、この仕事に、心の底から納得しているか?」
  • 「“私”は、このお金の使い方に、喜びを感じているか?」
  • 「“私”は、この人間関係を、本当に望んでいるか?」

これは、些細な変化に見えるかもしれない。しかし、これは、僕の人生における、コペルニクス的転回であり、人生の主導権を、他人から自分自身へと取り戻す、静かなる「革命」だった。


第四章:自分の“価値観”を守るための、具体的な3つの技術

この革命を成功させ、「自分」を主語にして生き続けるためには、いくつかの具体的な技術が必要になる。

① 他人の人生に“意味”を求めることを、やめる

まず、心に刻むべきこと。それは、「他人の成功物語は、あなたの人生の攻略本にはならない」という事実だ。 彼らがその成功を手に入れた背景には、あなたとは全く異なる環境、才能、そして、無数の幸運がある。その表面的な結果だけを切り取って、自分の人生に当てはめようとすることは、他人の地図で、見知らぬ森を彷徨うようなものだ。 彼らの人生に、あなたの人生の意味を探すな。あなたの物語のヒントは、あなたの内側にしか存在しない。

② 「内省」という名の、聖域を持つ

自分を主語にして生きるためには、「自分とは、何者か」を知らなければならない。 僕は、意識的に「書く」という時間を持つようにしている。誰に見せるでもないノートに、自分の感情、思考、価値観を、ひたすら書き出す。 この「内省」という、自分自身との対話の時間を経て初めて、僕たちは、社会のノイズの中から、自分だけの「本音」を、救い出すことができる。

③ 「自律」という、経済的な盾を持つ

そして、これが最も現実的で、強力な武器かもしれない。 それは、「経済的な自律」を達成することだ。 会社からの給与という、たった一本の生命線に依存している限り、僕たちは、上司の評価や、会社の都合という「他人の目」から、完全に自由になることはできない。 資産を築き、収入源を分散させ、「いざとなれば、いつでもこの場所から離れられる」という選択肢を持つこと。その経済的な盾こそが、僕たちに、自分の価値観に従って生きる、本当の勇気を与えてくれるのだ。


あなたは、誰の人生を生きるのか?

他人の目を気にするな、というのは、他者を無視して、独りよがりに生きろ、ということではない。 それは、評価の源泉を、外部から、自分自身の内側へと、取り戻すということだ。

僕たちが本当に求めるべきは、他人からの「いいね!」の数ではない。 それは、一日を終えた夜、静かに目を閉じ、自分自身の今日の選択に対して、心の底から「いいね!」と、頷けるかどうか。その、静かで、揺るぎない「納得感」だ。

世界は、これからも、あなたのことを評価し続けるだろう。 問題は、あなたが、誰のために、その人生を演じるのか、ということだ。

観客は、もういらない。 さあ、あなたも、他人のためのステージから降りて、自分自身が、唯一の観客となる、あなただけの舞台を、今日から始めようじゃないか。

-人間関係