その“一体感”は、幻想に過ぎなかった
結婚して、10年以上の月日が流れた。 かつて僕たちが思い描いていた「結婚」とは、どんな姿だっただろうか。二人の人間が、愛の名の下に一つになり、喜びも悲しみも分かち合い、同じ方向を向いて歩んでいく——。そんな、ロマンティックで、一体感に満ちた物語を、心のどこかで信じてはいなかっただろうか。
しかし、10年という、決して短くない時間を共に過ごし、僕がたどり着いた結論は、その幻想とは、全く別の景色だった。
僕が考える、持続可能で、健やかなパートナーシップの秘訣。 それは、「いかにして、二人の“距離”を、賢く、そして尊重し続けるか」という、極めてドライで、しかし本質的な技術に尽きる。
これは、冷笑的な諦めの話ではない。むしろ、「自立」した二人の個人が、互いの人生を最大限に尊重し、最高の協力者であり続けるための、極めて積極的で、愛に満ちた戦略の話なのだ。
第一章:すべての不満は、自分自身で解決せよ - パートナーシップにおける「絶対的自立」の原則
結婚生活において、僕が自分に課している、最も重要なルールがある。 それは、「相手に、自分の問題を解決させようとしない」ということだ。
仕事の不満、人間関係のストレス、将来への不安。これらの感情的なゴミを、パートナーという名のゴミ箱に、無造作に投げ込んではいないだろうか。「察してほしい」「慰めてほしい」「解決策を提示してほしい」。その「期待」こそが、関係性を蝕む、最も強力な毒となる。
僕たちの人生の主役は、僕たち自身だ。自分の機嫌は、自分で取る。自分の問題は、自分で解決する。この「絶対的な自立」こそが、健全なパートナーシップの、揺るぎない土台となる。
相手は、あなたのセラピストでも、親でもない。一人の、対等な人間だ。 互いが、それぞれの足で、どっしりと大地に立っていること。その上で初めて、僕たちは、真の意味で協力し、支え合うことができるのだ。
第二章:育児とは、終わりある“地獄”である - 「期間限定の、全力投球」という考え方
「日本の男性は、育児に参加しない」。 そんな批判を、よく耳にする。僕自身、子どもが小さかった頃は、毎日、保育園の送り迎えを担当していた。
その経験から、僕は断言できる。 育児、特に乳幼児期のそれは、間違いなく「地獄」だ。睡眠時間は削られ、自分の時間は消滅し、精神は極限まですり減る。
しかし、この地獄には、明確な「終わり」がある。 永遠に続くわけではない。長くても5年。その期間を過ぎれば、子どもは急速に自立し、僕たちの手から離れていく。
だからこそ、僕たち男性は、この「期間限定のプロジェクト」に、一度、本気でコミットすべきなのだ。 「不慣れだから」「仕事が忙しいから」という言い訳は、通用しない。不慣れなのは、当たり前だ。しかし、その「やりすぎ」とも言える時期を経験することでしか、得られないものがある。
この地獄の期間を乗り切るためのコツは、やはり「自立」だ。 パートナーに、過度な期待をしない。自分が母親の代わりになれないように、母親も父親の代わりにはなれない。互いに完璧を求めず、ただ、「自分でできる範囲のことは、自分でやる」。そして、相手の領域に、過度に踏み込まない。この冷静な「線引き」こそが、夫婦という名のチームを、崩壊から救う唯一の道なのだ。
第三章:一人で立てるから、二人で強くなれる - 「経済的自立」という名の、生命線
この「精神的自立」を、根底から支えるもの。 それは、言うまでもなく「経済的自立」だ。
僕が考える、理想の夫婦の経済状態。 それは、「一人でも、十分に生きていける。だから、二人でいれば、もっと楽に、もっと豊かになれる」という状態だ。
もし、「二人分の馬力を合わせなければ、生活が成り立たない」という状態だとしたら、その関係は、あまりにも脆い。どちらかが病気になったら? どちらかが仕事を失ったら? その瞬間、二人の関係は、共倒れの危機に瀕する。
経済的な依存は、精神的な依存を生み、健全な対話の機会を奪う。 互いが、経済的に自立していること。その安心感があるからこそ、僕たちは、対等なパートナーとして、互いを尊重し、自由な関係性を築くことができるのだ。
第四章:「共通の趣味」は、むしろリスクである - それぞれの“聖域”を守るということ
「夫婦円満の秘訣は、共通の趣味を持つこと」。 これもまた、世間に流布する、美しい幻想の一つだ。僕の考えは、むしろ真逆だ。
共通の趣味は、持たない方がいい。
なぜなら、それは、新しい「すれ違い」や「思想のギャップ」を生む、火種になりかねないからだ。「今日は、あまり気分じゃない」「そのやり方は、少し違うと思う」。楽しむために始めたはずのことが、いつしか、相手に合わせるための、新しいストレス源へと変わっていく。
それよりも、遥かに重要なこと。 それは、それぞれが、自分一人で完結できる「ストレス発散法」という名の“聖域”を、確実に確保しておくことだ。
僕にとって、それは筋トレであり、サウナであり、一人カラオケだ。 パートナーには、パートナーだけの世界がある。 互いに、その聖域には踏み込まない。そして、それぞれが、その場所で、自分の機嫌を自分で取り、リフレッシュして、また日常に戻ってくる。
この、互いに依存しないストレス解消のサイクルを持つことこそが、長い結婚生活を、健やかに維持するための、極めて有効な技術なのだ。
そして、少子化は“必然”となる
ここまで読んで、こう思うかもしれない。「そんな、自立した人間ばかりではない」と。 その通りだ。そして、それこそが、現代日本の、核心的な問題なのだ。
僕が語ってきたような「自立した個人同士のパートナーシップ」は、残念ながら、誰もが実現できるものではない。なぜなら、それを実現するための前提条件である「経済的な安定」を、この国の上がらない賃金が、多くの若者から奪い去っているからだ。
だから、結婚できるのは、自らの力で、この厳しい経済環境を乗り越え、自立を達成できた者だけになっていく。 そして、僕は思うのだ。それで、良い、と。
なぜなら、自立できていない者同士が、互いに依存し合う形で結婚しても、その関係は、いずれ破綻する可能性が高いからだ。
そう考えると、この国で少子化が進むのは、もはや“必然”なのである。 僕たちが嘆くべきは、少子化という「結果」ではない。僕たちが向き合うべきは、多くの若者が、経済的にも、精神的にも、「自立」することが困難な社会構造、そのものだ。
そして、その中で僕たち個人ができることは、ただ一つ。 社会が変わるのを待つのではない。 自分自身が、誰にも依存せず、自分の足で立ち、自分の機嫌を自分で取れる、自立した人間になること。
その覚悟を決めた者だけが、これからの時代、本当の意味で、他者と豊かに関わり、幸福な人生を築いていくことができるのだから。