学び

MBAは正解を教えてくれなかった!30代後半、僕が学び直しで見つけた「自分だけのコンパス」

2025年8月4日

なぜ、今さら学ぶのか?

30代も後半に差し掛かり、キャリアもある程度固まってきた。それなりに責任のある仕事を任され、部下もいる。傍から見れば、順風満帆なサラリーマン人生かもしれない。

しかし、僕の心の中には、ずっと消えない霧のような「違和感」があった。

「このままで、本当にいいのだろうか?」 「今の仕事は、自分が本当にやりたいことなのだろうか?」

能力的な限界を感じる瞬間も増えていた。目の前の数字を追い、ロジックを組み立て、最適解を導き出す。その繰り返しの中で、いつしか思考が凝り固まり、自分自身の「心の声」が聞こえなくなっていくような、漠然とした焦り。

その霧を晴らしたい一心で、僕はビジネススクール、いわゆるMBAの門を叩くことを決めた。時間も、決して安くはない学費もかかる。それでも、この停滞感を打破するためには、外部からの刺激と新しい知性が必要だと感じたのだ。

今日は、そんな僕がビジネススクールに通い始めて感じた、当初の期待とは少し違う「リアルな学び」について、正直に語ってみたいと思う。


第一章:スキル習得の場から「問いと向き合う」稽古場へ

正直に告白すると、通い始める前の僕がMBAに期待していたのは、もっと直接的で、分かりやすい「武器」だった。

ファイナンスの高度な知識、人を動かすためのマーケティング戦略、そして、どんな相手も論破できるようなフレームワーク。それらを身につければ、今の仕事のパフォーマンスも上がり、自分の市場価値も高まるだろう。そんな、ある種の実利的な計算があったことは否定できない。

しかし、実際に授業が始まると、僕の期待は良い意味で裏切られることになる。

もちろん、知識やフレームワークも学ぶ。しかし、それ以上に時間を割かれるのが、ケーススタディを通じて行われる「対話」と「問い」の時間だった。

提示されるのは、過去に実在した企業の成功例や失敗例。講師が求めるのは、「この場合の正解は何か?」ではない。「あなたなら、この時どう判断するか?」「なぜ、そう考えるのか?」「その判断の根拠となる価値観は何か?」——。徹底的に、「自分ごと」として思考することを求められるのだ。

これは、僕にとって心地よい挑戦だった。

もともと、一人で物事を深く考える「内省」は得意な方だ。だが、その内省の結果を、他者に伝わる言葉で表現し、多様な意見とぶつけ合う「対話」は、正直なところ苦手分野だった。自分の思考のプロセスを言語化し、相手の意見に真摯に耳を傾け、時には自分の考えを修正する。

ビジネススクールは、僕にとってスキルを習得する場所というよりも、この「内省と対話の往復運動」を繰り返すための、上質な“稽古場”のような場所になっていった。


第二章:「正しさ」の呪縛からの解放。僕が求めていた“納得感”

もう一つ、大きな気づきがあった。それは、「正解を求めすぎなくていい」という感覚だ。

会社の仕事というものは、どうしても「正しさ」に強く引っ張られる。売上目標、KPIの達成、業務の効率化。常に外部に設定された評価軸があり、その「正しさ」に自分を最適化させていくことが求められる。それは組織で働く以上、当然のことだ。

しかし、その「正しさ」を追求するあまり、僕たちはいつの間にか「自分にとっての納得感」を置き去りにしてはいないだろうか。

MBAの教室では、むしろ「なぜ、それが“正しい”と言えるのか?」「その前提自体を疑ってみるべきではないか?」といった、深掘りや根源的な問いが歓迎される。クラスメイトたちから出てくる意見は、立場も経験もバラバラで、一つの「正解」に収束することはない。

ある人にとっては合理的な判断が、別の人にとっては倫理的に許容できない判断だったりする。その多様な価値観に触れる中で、僕は「ああ、そうか」と腑に落ちる瞬間があった。

大切なのは、唯一無二の正解にたどり着くことではない。無数の選択肢の中から、自分なりの価値観と判断軸に基づいて、最も「納得できる」一手を選ぶことだ。そして、その選択の理由を、自分の言葉で語れること。

これこそ、僕が求めていた「自律」の感覚であり、「自由」の本質だったのかもしれない。他人が決めた正解に従うのではなく、自分で考え、自分で選び、その結果に責任を持つ。そのプロセス自体に、学びの価値はあるのだと気づかされた。


第三章:それでも、なぜ学び続けるのか? - 未来への投資としての“今”

もちろん、理想論ばかりを語るつもりはない。仕事と学びの両立は、想像以上に過酷だ。

平日はフルタイムで働き、夜は予習に追われる。特に、土曜の午後に授業がある週は最悪だ。貴重な休日の午前中にジムでなんとか体力を維持し、午後は数時間の講義に全神経を集中させる。終わる頃にはヘトヘトで、思考力も体力もゼロに近い。

「ここまでして、本当に意味があるのだろうか?」

正直、何度も自問した。しかし、答えはいつも「YES」だ。

なぜなら、この学びの中に、僕が今後どう生きていきたいかを見つめ直すための、重要なヒントが詰まっているからだ。ファイナンスの授業で語られる企業の栄枯盛衰は、そのまま個人のキャリア論に置き換えられる。組織論で学ぶリーダーシップのあり方は、家庭や地域コミュニティでの自分の振る舞いを省みるきっかけになる。

一つ一つの知識や理論が、僕自身の人生という壮大なケーススタディと結びつき、血肉となっていく。この感覚は、日々の業務だけをこなしていては、決して得られなかったものだ。


第四章:未来の点を打つということ - 僕のキャリアの現在地

僕は今、会社の経営企画に近い部署で、主に数字を管理する仕事をしている。それはそれで専門性が高く、重要な仕事だ。しかし、心のどこかで「過去の集計」や「現状の分析」に終始している自分に、物足りなさを感じていた。

僕が本当にやりたいのは、もっと“未来に触れる”仕事だ。新しい事業に投資したり、M&Aを通じて会社の形を変えたり、CVC(コーポレート・ベンチャー・キャピタル)でスタートアップの熱気に触れたり。そんな、不確実性の中から未来を創造していく領域に、強く惹かれている。

今の僕にとってMBAは、その未来へ向かうための「布石」だ。

スティーブ・ジョブズが語ったように、人生における点と点は、後になって初めて繋がる。今の学びが、将来のキャリアにどう直結するのか、正直まだわからない。でも、僕は今、未来の自分に繋がるであろう「点」を、必死で打ち続けている。

MBAで得られるものは、特定の知識や資格以上に、「自分で納得して、進むべき道を選び取れる力」そのものなのだと思う。それは、判断の独立性を確保し、いざという時に会社という組織に依存しなくても生きていける「逃げ道」を、知性によって築く作業でもある。


おわりに:人生のハンドルを、自分の手に取り戻す

この年齢で学ぶということは、20代の頃とは時間の価値が全く違う。有限な時間を何に投資するのか。その選択自体に、その人の生き方が表れる。

だからこそ、僕は学びたい。無駄にしたくないという気持ちと同時に、「今、何を学ぶべきか」を真剣に選ぶ責任が、自分にはあると感じている。

ビジネススクールは、手取り足取り答えを教えてくれる場所ではなかった。むしろ、これまで自分が信じてきた「正解」を壊し、無数の問いを投げかけてくる場所だった。

しかし、その問いと向き合い続ける中で、僕は少しずつ、自分の人生のハンドルを、確かにこの手で握り直しているという感覚を得ている。

誰かが敷いたレールの上を走るのではない。自分だけのコンパスを頼りに、道なき道を進んでいく。MBAでの学びは、僕にその覚悟と勇気を与えてくれた、人生の大きな転換点になった。きっと、卒業する頃には、また新しい景色が見えているに違いない。

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