支出の最適化

20代の自分に伝えたい!「なぜ、もっと"経験"にお金を使わなかったんだ」と

2025年8月7日

1. 若い頃のお金の使い方

若い頃、僕はお金を使うのがひどく下手だった。

20代の僕にとって、お金は「所有」と「快楽」のためのチケットだった。汗水たらして稼いだ給料は、そのほとんどが、手にした瞬間に消えていく泡のような存在。

ブランド物の服、最新のガジェット、仲間と飲み明かす夜。 それらは確かに、一瞬の昂揚感と満足感をくれた。まるで、自分が少しだけ「格上げ」されたような、根拠のない万能感。

しかし、その高揚感は驚くほど短命だ。 クローゼットに吊るされた服は、次のシーズンの流行に乗り遅れ、色褪せて見える。あれほど熱狂したガジェットは、半年もすれば後継機が登場し、ただの箱となる。二日酔いの頭痛と共に迎える朝には、昨夜の熱狂の代わりに、空っぽの財布と、ぼんやりとした虚しさだけが残っていた。

僕が買っていたのは、モノやサービスそのものではなく、「見栄」「刹那的な快楽*だったのだ。自分の価値を、所有物によって証明しようと必死だった。自分の内面の空虚さを、外部からの刺激で埋めようともがいていた。

その消費に「納得感」はあっただろうか。 今振り返れば、皆無だったと言わざるを得ない。それは消費ではなく、ただの「浪費」。未来の自分から、資産と時間を前借りしているだけの、愚かな行為だった。

2. モノ消費 vs コト消費(経験価値)

僕たちは、お金の使い方を大きく二つに分類できる。 「モノ消費」と「コト消費」だ。

「モノ消費」とは、文字通り、形あるモノを購入する行為だ。洋服、車、家電、家。これらは物理的な所有物として、僕たちの生活を豊かにしてくれる。

一方の「コト消費」とは、体験や経験を購入する行為を指す。旅行、学習、食事、ライブ、人との交流。これらは物理的な形として残るわけではないが、僕たちの記憶や感情、そして人生そのものに深く刻まれる。

若い頃の僕は、完全に「モノ消費」に偏っていた。 なぜなら、モノは分かりやすいからだ。価値が目に見え、他人と比較しやすく、手に入れた実感が湧きやすい。

しかし、モノがもたらす幸福感は、心理学で言うところの「快楽のトレッドミル」現象に陥りやすい。つまり、手に入れてもすぐに慣れてしまい、幸福感は長続きしない。そして、さらなる満足を求めて、より高価な、より新しいモノを追い求め続けることになる。

対して、「コト消費」、つまり経験がもたらす幸福感は、持続性が高いと言われる。 旅行の思い出は、時間が経つにつれて美化され、語るたびに再び楽しむことができる。苦労して身につけたスキルは、誰にも奪われることのない、一生の資産となる。大切な人と過ごした時間は、かけがえのない記憶として、僕たちの人生を支え続ける。

モノは、買った瞬間から価値が下がり始める。 しかし、良質な経験は、時間が経つほどに価値が上がっていく「熟成する資産」なのだ。

3. 年齢を重ねて価値観が変わった理由

では、なぜ僕の価値観は、あれほど偏っていたモノ消費から、コト消費へと大きくシフトしたのだろうか。 理由は、3つある。

一つ目は、モノで得られる満足に「飽きた」ことだ。 ある程度の年齢になり、欲しいモノが一通り手に入ると、気づくのだ。「結局、モノをいくら集めても、人生の幸福度はさほど変わらない」という事実に。クローゼットを満たすことと、心を満たすことは、全くの別問題だった。

二つ目は、お金より「時間」が希少になったことだ。 20代の頃は、時間は無限にあるように感じられた。しかし、30代、40代と歳を重ねるにつれ、「残された時間」を意識するようになる。そうなると、有限な時間を、どうすれば最も豊かに使えるか、という視点が生まれる。モノを買うために費やす時間よりも、何かを経験し、学ぶ時間の方が、はるかに価値が高いと気づいたのだ。

そして三つ目が、「自分は何者か」という問いの変化だ。 若い頃は、「何を持っているか」が自分のアイデンティティだと思っていた。しかし、本質は逆だった。「何を経験してきたか」こそが、僕という人間を形作るのだ。様々な経験は、僕の血肉となり、思考のOSをアップデートし、世界を見る解像度を上げてくれる。所有物ではなく、経験こそが、僕の個性そのものなのだと、ようやく理解できた。

価値観の成熟とは、言い換えれば、人生における本当の「資産」とは何かを見極める力が養われた、ということなのかもしれない。

4. 自分にとっての“価値ある体験”とは何か

では、僕にとっての「価値ある体験」とは、具体的に何だろうか。 それは、「後から振り返った時に、自分の人生の“物語”の一部になるもの」だ。

  • 学びと自己投資の体験 僕にとって最も価値のあった投資の一つは、MBAの取得だ。学費は決して安くはないが、そこで得た知識、思考のフレームワーク、そして何より多様なバックグラウンドを持つ仲間との出会いは、その後の僕のキャリアと人生観を根底から変えた。これは、僕の魂に行われた、最高のソフトウェア・アップデートだった。
  • 関係性を深める体験 家族や、旧友と過ごす旅行の時間。そこで交わす、他愛もない会話。同じ景色を見て、同じものを食べて笑い合う。これらの時間は、僕たちの関係性という、何物にも代えがたい資産を、より強固なものにしてくれる。思い出という共通の財産が増えていく感覚は、極上の喜びに満ちている。
  • 世界観を揺さぶる体験 一人で訪れた異国の地で、言葉も通じない中で、自分の無力さと世界の広さを同時に味わった経験。あるいは、地獄のような群発頭痛を経験し、健康という当たり前の奇跡に心から感謝できるようになったこと。快適な日常から一歩踏み出した先にあるこれらの体験は、僕の世界観を根底から揺さぶり、人間としての深みを与えてくれる。

これらの体験に共通するのは、お金を払った対価として、僕自身が「変化」しているという事実だ。知識が増え、視点が増え、人間関係が深まり、器が大きくなる。これこそが、僕がお金を払ってでも手に入れたい、真の価値なのだ。

5. お金を使うことに迷わなくなった背景

こうした価値観の転換を経て、僕は、お金を使うことに以前ほど迷わなくなった。 もちろん、無駄遣いをするという意味ではない。むしろ逆だ。自分の中に、お金を使うべきか否かを判断するための、明確な「投資基準」ができたのだ。

僕は何かにお金を使おうとする時、自問する。

「この支出は、未来の自分への“投資”になるか?」

「この経験は、僕の物語を豊かにしてくれるか?」 「この学びは、僕の可能性を広げてくれるか?」 「この時間は、僕の大切な人との絆を深めてくれるか?」

この問いに「イエス」と即答できるのであれば、僕は躊躇しない。 たとえそれが高価であっても、それは「消費」ではなく、人生の幸福度を高めるための、極めて合理的な「投資」だからだ。

経験から得た学びや知恵は、僕が人生の岐路に立った時の、判断の質を高めてくれる。豊かな人間関係は、僕が困難に陥った時の、最強のセーフティネットとなる。これらのリターンは、株式投資のリターンとは比較にならないほど、大きく、そして永続的だ。

かつて僕にとって、お金は「使うとなくなるもの」だった。 しかし、今の僕にとって、お金は「価値ある経験に交換できる、魔法のツール」だ。

本当の豊かさとは、貯金の多さや所有物の数で測るものではない。 自分にとっての価値を正しく見極め、そこに躊躇なくお金と時間を投下できる、その「自由」と「納得感」の中にこそ、存在するのだ。

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