人生論

40代を「不惑」で迎えるために、僕が30代のうちに捨てた3つの“呪い”

2025年8月6日

「40にして惑わず」その言葉が、遠い国の神話に聞こえた日

30代という季節は、人生の嵐のようだ。 ふと周りを見渡せば、同僚は昇進し、友人は家を建て、SNSには、幸せそうな家族写真が溢れている。それに引き換え、自分はどうだ。

キャリア、結婚、資産形成、そして、自分自身の才能の限界。 あらゆる座標軸の上で、他人と自分を比較し、焦り、嫉妬し、そして、漠然とした不安に心を蝕まれる。それが、僕にとっての30代だった。

古代中国の賢人、孔子は言った。「四十にして惑わず(不惑)」と。 しかし、嵐の真っただ中にいた僕にとって、その言葉は、あまりにも穏やかで、現実離れした、遠い国の神話のように聞こえていた。

だが、40歳という節目を目前にした今、僕は、不思議と心が凪いでいるのを感じる。かつて僕をあれほど苦しめた嵐は、静まりつつある。

それは、僕が人生のすべての問いに答えを見つけ、完璧な成功を手に入れたからではない。 むしろ逆だ。僕が「不惑」の入り口に立てているのだとしたら、それは、僕を惑わせていた“呪い”のような固定観念を、自らの意思で、一つひとつ捨て去ってきたからに他ならない。

この記事は、そんな僕が30代のうちに捨てた、3つの呪縛についての、極めて個人的な記録である。


第一章:一つ目の呪い -「“普通”の人生」という名の、古ぼけた地図

僕たちが最初に捨てるべき、最も強力な呪い。 それは、「“普通”の人生を送らなければならない」という、社会が押し付けてくる固定観念だ。

  • 30歳までには結婚し、
  • 35歳までには家を買い、
  • 40歳までには管理職になる…

まるで、全員が同じ駒を進める「人生すごろく」のように、僕たちの頭の中には、漠然とした“普通”のタイムラインが刷り込まれている。そして、そのマス目から一つでも外れると、「自分は“普通”ではないのではないか」という、耐えがたい不安に襲われる。

しかし、僕は30代の半ばで、このすごろく盤そのものが、とうの昔にサービスを終了した「昭和」という時代の遺物であることに気づいた。

終身雇用が崩壊し、生き方がこれほどまでに多様化した現代において、もはや、たった一つの「普通」など、どこにも存在しない。その古ぼけた地図を頼りに、他人の後を追い続けることは、自分の心を偽り、人生の主導権を他人に明け渡す、最も不幸な生き方だ。

【僕がしたこと】 僕は、他人の地図を破り捨て、自分だけのコンパスを持つことに決めた。 そのコンパスの針が指し示すのは、「僕自身の“納得感”」だ。他人がどう思うかではない。僕が、心の底から「これで良い」と思えるかどうか。

その問いと向き合い始めた瞬間から、僕は、他人との比較という、不毛なレースから、静かに降りることができた。


第二章:二つ目の呪い -「一本道のキャリア」という、沈みゆく泥舟

次に僕が捨てたのは、「一度選んだ会社やキャリアで、一本道を突き進むべきだ」という、安定志向という名の呪いだ。

かつての日本では、一つの会社に忠誠を誓い、定年まで勤め上げることが美徳とされた。転職は「根性がない」ことの証であり、キャリアチェンジは敗者の選択だった。

しかし、VUCAと呼ばれる、予測不可能な現代において、この考え方は、もはや美徳ではない。それは、沈みゆえく泥舟に、自らの身体を鎖で繋ぎとめるような、極めて危険な思考停止だ

AIの台頭、パンデミック、地政学リスク…。僕たちが拠って立つビジネスの地盤は、常に揺れ動いている。昨日まで安泰だった業界が、明日には消滅しているかもしれない。そんな時代に、たった一つの会社、たった一つのスキルに、自分の人生のすべてを賭けることが、どれほどのリスクか。

【僕がしたこと】 僕は、自分のキャリアを「一本道」として捉えるのをやめ、「多様な資産のポートフォリオ」として、戦略的に構築し直すことにした。

  • 本業: 会社というプラットフォームを最大限に活用し、専門性と経験という「事業資産」を築く。
  • 学び(MBA): どんな環境でも通用する「知的資本」に投資し、思考のOSをアップデートし続ける。
  • 投資(資産形成): 会社からの給与収入に依存しない、「経済資本」を育てる。

キャリアとは、もはや会社に捧げるものではない。それは、「株式会社・自分」という、あなただけの企業の価値を、生涯にわたって最大化させていく、知的で、スリリングなプロジェクトなのだ。


第三章:三つ目の呪い -「“もっと手に入れること”が幸福だ」という、終わりのない渇き

そして、僕が最後に捨てた、最も根深い呪い。 それは、「もっと多くのモノを、もっと高い地位を、もっと多くの承認を手に入れることこそが、幸福である」という、資本主義社会が生み出した、最強の幻想だ。

30代前半の僕も、この呪いに深く囚われていた。より良い車、より高価な時計、より広い家。それらを手に入れれば、自分の価値が上がり、心は満たされるはずだと信じていた。

しかし、実際にそれらをいくつか手に入れてみて、僕が気づいたのは、残酷な真実だった。 手に入れた瞬間の喜びは、驚くほど速く色褪せる。そして、後に残るのは、さらなる「もっと」を求める、終わりのない渇きだけ。心理学で言うところの「快楽のトレッドミル」だ。

このゲームには、ゴールがない。あるのは、他人との比較から生まれる、永遠の消耗戦だけだ。

【僕がしたこと】 僕は、幸福の源泉を、「獲得(Acquisition)」から「体験(Experience)」「感謝(Gratitude)」へと、意識的にシフトさせた。

高価なモノを買うためのお金を、心揺さぶる旅や、新しい学び、そして大切な人との時間といった、**記憶として永遠に残る「体験資本」**へと投資し直した。

そして、何かが「足りない」と嘆くのではなく、すでに自分が持っているもの——健康な身体、安全な住処、語り合える友人——に目を向け、その**「当たり前」という名の奇跡**に、深く感謝する習慣を始めた。


「不惑」とは、答えを見つけることではない

むしろ、僕を惑わせていた、他人や社会が作った「偽りの問い」そのものを、捨て去ることができた、という状態に近い。

もう、他人と自分を比べる必要はない。 もう、誰かが作った「普通」のレールの上を走る必要はない。

僕の手の中には、僕自身の価値観で磨き上げた、信頼できるコンパスがある。このコンパスさえあれば、これからどんな未知の海に漕ぎ出そうとも、僕はもう、惑うことはないだろう。

「不惑」とは、何かを手に入れることで達する境地ではない。 それは、不要なものを手放し、身軽になることで、ようやく見えてくる、新しい地平線なのだ。

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