人生の“OS”から、目をそむけていないか?
食欲、睡眠欲、そして、性欲。 人間が根源的に持つとされる、三つの大きな欲求。
僕たちは、年齢を重ねるにつれて、食や睡眠については、むしろ雄弁になる。「健康のために、食事に気を使っている」「パフォーマンスのために、良質な睡眠を追求している」——。それは、成熟した大人の知的な営みとして、肯定的に語られる。
しかし、三つ目の「性」については、どうだろうか。
多くの男性は、人生の半ばを過ぎたあたりから、そのテーマに意識的な、あるいは無意識的な「蓋」をしてはいないだろうか。「もう若くはないから」と過去のものとして諦め、「家庭や社会的な立場があるから」と面倒なものとして遠ざけ、「口にするのは、はしたない」と恥ずかしいものとして心の奥底に封じ込める。
だが、本当にそれでいいのだろうか。
僕は、ある時から考えるようになった。人間の根源的なエネルギーの源泉である「性」から目をそむけることは、人生全体の活力や彩りを、自ら手放すことに等しいのではないか、と。
この記事は、僕が「性に正直に生きる」と決意するに至った経緯と、そのために実践している、ささやかだが重要なルールについて語るものである。これは、本能の赴くままに行動することを推奨するものではない。むしろ、自分という複雑で厄介な存在と、いかにして知的かつ誠実に向き合い、マネジメントしていくかという、一人の“大人”の、内省の記録だ。
第一章:なぜ僕たちは「性」という名の部屋に鍵をかけてしまうのか
中年期に差し掛かった男性が、性を遠ざけてしまう背景には、いくつかの根深い要因があるように思う。
第一に、「社会的ペルソナ」という名の鎧だ。 僕たちは、社会の中で多様な役割を生きている。「信頼される上司」「良き夫」「頼れる父」。これらのペルソナは、社会生活を円滑に送る上で不可欠な鎧だ。しかし、その鎧が重くなればなるほど、その下にある、生々しく、時に矛盾を抱えた「一個人の本質」は、息苦しさを感じ始める。清廉潔白で、理性的であるべきだ、という社会からの期待が、人間本来の動物的なエネルギーを抑圧してしまうのだ。
第二に、「身体的な変化」という現実との向き合い方だ。 若い頃と同じような体力やパフォーマンスを維持することが難しくなってくる中で、かつての自信を失い、このテーマそのものから距離を置くことで、自分の変化と向き合うことから逃避してしまう。これは、極めて人間的な、しかし消極的な自己防衛と言えるだろう。
そして第三に、そもそも「成熟した性のあり方」を学ぶ機会が、この社会にはあまりにも欠如していることだ。 世に溢れるのは、若者向けの消費的なコンテンツか、あるいは医学的な見地からの即物的な情報ばかり。年齢を重ねた大人が、人生の文脈の中で、自らの性とどう向き合い、どう豊かにしていくか、という哲学的・文化的な対話の場が、驚くほど少ないのだ。
これらの要因が複雑に絡み合い、僕たちは「性」という、自分自身の重要な一部屋に、いつしか固く鍵をかけ、その存在すら忘れたかのように振る舞ってしまうのである。
第二章:「無視」と「溺れる」の間に存在する、第三の道
では、どうすればいいのか。鍵をかけたまま見ぬふりをする「無視」か、あるいは、鍵をこじ開けて本能のままに振る舞う「溺れる」か。多くの人は、この二者択一しかないように思い込んでいる。
しかし、僕は、そのどちらでもない「第三の道」が存在すると考えている。 それは、性を「自己統制(セルフマネジメント)の対象」として、主体的かつ知的に扱う、という道だ。
これは、僕たちが日頃から行っている、他の営みと何ら変わらない。
例えば、「食」。僕たちは、ただ空腹に任せて暴飲暴食をするのではなく、栄養バランスを考え、時には節制し、時には最高のご馳走を味わうことで、食生活をマネジメントしている。 例えば、「お金」。僕たちは、ただ欲望のままに散財するのではなく、予算を立て、貯蓄をし、自己投資をすることで、資産をマネジメントしている。
「性」もまた、それらと全く同じ地平で捉えることができるはずだ。 自分の欲求の波を客観的に観察し、そのエネルギーが枯渇しないよう、かといって暴走しないよう、自分なりのルールを設け、メンテナンスを施していく。
これは、僕が大切にする「自律」と「納得感」という価値観そのものの実践だ。社会の規範や、他人の価値観に自分を明け渡すのではない。自分自身の本質と誠実に向き合い、自分が深く納得できる「自分だけのルール」を、自分の責任において運用していくのだ。
第三章:僕が実践する「性と向き合う」ための3つの知的営み
「自分だけのルール」とは、具体的にどのようなものか。僕が実践している3つの知的営みを紹介したい。これらは、僕が僕自身の主人であり続けるための、重要な儀式でもある。
営み①:「言語化」という名の聖域を設ける
自分の欲求を、ただ漠然とした「もやもや」のまま放置しない。僕は、手帳や日記に、自分の心身の状態を定期的に書き留めるようにしている。
「今、自分はどんな状態にあるのか」「どんな刺激に対して、心が動くのか」「その欲求が満たされた時、あるいは満たされない時、心身にどんな影響があるのか」
感情や欲求を「言語化」するプロセスは、それらを自分から切り離し、客観的な分析対象へと変える効果がある。まるで、研究者が観察対象を記録するように。この「書く」という行為を通じて、僕は感情の波に振り回されることなく、冷静に自分自身と対話することができる。
営み②:「投資」として、予算と時間を確保する
自分の根源的な欲求を満たすための活動を、やましい「浪費」や、こそこそ行う「息抜き」と捉えることを、僕はやめた。
それは、自分の人生全体の活力を維持し、精神的な健康を保つための、極めて正当な「自己投資」である。そう位置づけた上で、僕は家計やスケジュールの中に、あらかじめそのための「予算」と「時間」を聖域として確保している。
計画的にリソースを配分することで、後ろめたさは消え、その活動は「自分を大切にするための、意図的な行為」へと昇華する。この仕組み作りが、罪悪感から自由になるための第一歩だった。
営み③:好奇心を持って、「探求」し続ける
自分の身体や心について、「もう十分に知っている」と考えることをやめる。
健康に関する最新の知識を学んだり、パートナーシップに関する書籍を読んだり、あるいは、自分を深く満たしてくれる新しいサービスや体験を、好奇心を持って探求してみる。
「探求」を続ける限り、性はマンネリ化した「作業」にはならない。それは、未知の自分を発見し続ける、生涯をかけた面白いプロジェクトになる。この知的好奇心こそが、中年期の停滞感を打破し、人生の彩りを保ち続けるための鍵だと信じている。
自分自身の、最も誠実な理解者になること
「性に正直に生きる」 この言葉の本当の意味は、本能の奴隷になることでは、決してない。
それは、自分という、光も影も、理性も本能も、すべてを内包した複雑で愛おしい存在を、ありのままに認め、受け入れること。そして、そのどうしようもない自分を、賢く、豊かに、そしてご機嫌にマネジメントしていく、成熟した大人の知的営みに他ならない。
自分の根源的なエネルギーに蓋をすることは、楽なようでいて、実は人生の多くの喜びを諦めることと同義だ。無視も、溺れもせず、そのエネルギーの「優れた乗り手」になること。
その時、僕たちは、誰よりも自分自身の、最も誠実な理解者になれるのかもしれない。
あなたは、あなた自身の最も根源的な力と、これからどう向き合っていきますか? その対話の先にこそ、僕たちが求める、本当の意味での「豊かな人生」が待っているのだと、僕は信じている。