働き方

仕事なんて、所詮ただの暇つぶし。——それでも、なぜ私は働き続けるのか

スポンサーリンク

「仕事なんて、所詮ただの暇つぶしじゃないか」。

そう思う瞬間が、年々増えてきた。年収が上がっても、役職がついても、刺激は鈍くなる。やりたいことより「やれること」が求められ、それに応えることが“社会人”の務めとされる。

だけど、それって本当に人生の中心に置くべきものだろうか?

私は今、JTCの日本企業で働いているが、心のどこかでずっと違和感を抱えてきた。人を動かす仕事をしているはずなのに、自分の心は動いていない。ルーティン化された会議、形だけの報告、やった気になるKPI。正直に言ってしまえば、そのほとんどが“本当の意味での価値”には思えない。

働くとは、「時間をどう潰すか」という問題にすぎない

生きていくために必要なことは、実はそんなに多くない。食べて、寝て、愛して、感じて、少し学べればいい。だが、それらは一日のうちせいぜい数時間もあれば十分だ。残りの膨大な時間を、人は「暇つぶし」として何に費やすかで、人生の満足度が決まる。

その意味で、仕事もまた暇つぶしの一形態でしかない。

問題は、それが「自分の意思で選んだ暇つぶし」か、「社会に与えられた暇つぶし」かという違いだけだ。私たちは往々にして後者を選び、気づけば与えられたルールの中で自分の人生をやりくりしている。

それでも、働く理由を私は持っていたい

こんなふうに言うと、まるでニヒリズムに染まりきっているように聞こえるかもしれない。でも、私は仕事を完全に否定しているわけではない。

むしろ逆だ。暇つぶしだからこそ、その“暇”をどう“自分らしく潰すか”が重要だと思っている。

私が好むのは、「納得感のある働き方」だ。

例えば、目の前のプロジェクトが、誰かの人生に小さくでも静かに寄与していると感じられたとき。あるいは、無駄の多い組織の中で、一つでも本質に近づける提案ができたとき。たとえそれが評価されなくても、組織のノイズにかき消されても、自分の中で“やった意味がある”と思えるなら、それは良い暇つぶしだったと言える。

「自由」と「自律」こそが、働くことの本質

仕事を通して得たいのは、金でも地位でも承認でもない。

私にとって、それは「自由」と「自律」だ。誰かに決められた役割ではなく、自分で自分の役割を定義すること。そして、自分の価値観に照らして、やるかやらないかを選べる状態でいること。

そのために、私は経済的な選択肢も持っておきたいと思っている。だから高配当株を積み立て、企業型DCを活用し、サイドFIREを視野に入れる。MBAを取ろうと思ったのも、「暇つぶし」を少しでも自分寄りにカスタマイズする武器がほしかったからだ。

働かなくてもいい人生を選べることが、働く価値を高める

今後、もし経済的に完全に自由になったとしても、私はきっと何かしら働くだろう。なぜなら、暇を持て余した状態ほど、精神的に退屈なものはないと知っているからだ。

ただしそのときは、仕事を“生きるための手段”としてではなく、“生きているからこそ選ぶ遊び”として扱いたい。

たとえば、田舎に移住して、自然と共に生きること。週に数日だけ誰かの事業を手伝い、あとは畑を耕したり、風呂を薪で沸かしたり、犬と散歩したり。

そんな、誰にも管理されない「静かな貢献」の暮らし。

そんな暇つぶしなら、悪くないと思う。

結局のところ、仕事とは“自分にとって意味のある暇つぶし”であればいい

「所詮は暇つぶし」と冷めた目で見ることと、「どうせなら最高の暇つぶしにしよう」と前向きに向き合うことは、矛盾しない。

むしろ、あらゆるものの“意味”を疑い、再構築していくその過程こそが、内省型の人間にとっての喜びだ。

私は、誰かに認められたくて働いているのではない。

自分が、自分の生き方に納得したくて、働いている。

そしてその納得の先に、「誰かの人生がちょっとだけ豊かになる」瞬間があるなら、それは本当に幸福な暇つぶしだと思うのだ。

スポンサーリンク

-働き方