あの頃、僕たちが欲しかったもの
38歳になった。ふと、クローゼットの奥で眠っている、いくつかの高価な革靴に目をやる。30歳の頃、少し無理をして手に入れた、一足10万円ほどの英国紳士靴。当時は、これを履いて颯爽と街を歩く自分の姿に、確かな高揚感を覚えていた。
かつて僕の心をあれほど熱くさせた「物欲」という名の炎が、今、綺麗さっぱりと鎮火していることに気づく。
30代前半の僕は、欲にまみれていた。 ステータスシンボルとしての高級車に乗り、雑誌で見た流行りのブランド服で身を固め、週末には新しいガジェットや腕時計を眺めては、次の給料日の計算をしていた。モノを手に入れること。所有すること。それが、自分の価値を証明し、人生を豊かにする唯一の方法だと、本気で信じていた。
しかし、今の僕はどうだ。 服は、機能性で選ぶ。靴は、歩きやすさがすべて。車は、維持費と手間を考えて手放した。都心での移動は、時間通りに来て、読書もできる電車が最高だ。
あれほど僕を支配した物欲は、一体どこへ消えてしまったのだろうか? これは、単に僕が「オッサン」になったという、寂しい話なのだろうか。いや、おそらく違う。これは、僕の価値観が、より本質的なものへと進化した、一つの記録なのだ。
第一章:なぜ、あの頃の僕たちは「モノ」という鎧を必要としたのか
過去の自分を、浅はかだったと笑うつもりはない。30代の僕たちが、ブランド物や高級車を求めたのには、極めてまっとうな理由があった。
あれは、社会という戦場を生き抜くための「鎧」だったのだ。
まだ何者でもなく、自分に絶対的な自信が持てなかったあの頃。僕たちは、モノが持つブランドイメージや価格といった「記号」を身にまとうことで、自分を武装していた。「デキる男」「センスの良い大人」「成功している人間」。モノは、僕たちの代わりに、そうした自己紹介を雄弁に語ってくれた。
それは、自分という存在の輪郭を、外部のモノによって補強する作業だった。高価なスーツは、重要なプレゼンでの自信を後押ししてくれたし、力強いエンジンを持つ車は、僕に万能感を与えてくれた。モノを手に入れるという行為そのものが、仕事で得られるものとは別の、分かりやすい「達成感」をもたらしてくれたのだ。
その鎧は、確かに僕を守り、僕を強く見せてくれた。その役割を、僕は今でも感謝している。
第二章:鎧を脱ぎ捨てた日。「所有」の本当のコストに気づく
では、なぜ、その鎧は不要になったのか。 それは、いくつかの変化が、僕の内面で静かに、しかし確実に起きたからだ。
① 自分自身の「中身」が、鎧になった
一つは、38歳という年齢になり、自分という人間の輪郭が、モノの助けを借りずとも、ある程度はっきりと見えるようになってきたことだ。 様々な経験を積み、失敗から学び、自分なりの価値観や哲学を築き上げてきた。もはや、ブランドのロゴに頼らなくても、「自分は自分である」という、ささやかだが揺るぎない自信が、内側に育ち始めていた。
② 「所有」の本当のコストを知ってしまった
そして、もう一つ。これが決定的に大きい。 モノを「所有」し続けることの、本当のコストパフォーマンスの悪さに気づいてしまったのだ。
かつて僕の心をあれほど満たした高級車。しかし、その輝きを維持するためには、毎月の駐車場代、自動車保険、毎年の自動車税、そして2年に一度の車検という、高額で、ひどく面倒な「維持コスト」がのしかかってくる。 美しい革靴も、定期的な手入れを怠れば、その輝きは失われる。クローゼットを埋め尽くした服は、僕の部屋のスペースと、管理するための精神的なエネルギーを静かに奪っていく。
モノの価値は、買った瞬間がピークで、あとは下落していく。しかし、それを維持するためのコスト(お金、時間、労力)は、永続的に発生し続ける。この構造に気づいた時、僕にとって多くのモノは、輝かしい資産から、重たい「負債」へと変わった。
第三章:僕の新しい物差し。「体験価値」こそがすべて
物欲という古い物差しを捨てた僕が、新しく手に入れたもの。 それは、「それが、どんな“体験”をもたらしてくれるのか?」という、極めてシンプルな、しかし本質的な新しい物差しだ。
僕が今、お金を使う基準は、そのモノが持つスペックやブランドではなく、そのモノを通じて得られる「体験価値」が高いかどうか、ただその一点に集約される。
- 服や靴に求めるもの: もはやブランドロゴは必要ない。僕が求めるのは、旅行先で一日中歩き回っても疲れない、最高の履き心地の靴。汗をかいてもすぐに乾き、悪天候でも身体を守ってくれる、高機能なアウター。これらは、僕の「快適に旅をする」「気兼ねなく自然の中を歩く」という体験の質を、劇的に向上させてくれる。
- 移動手段に求めるもの: 車を手放し、電車やバスを選ぶようになったのも、同じ理由だ。渋滞のイライラや、駐車場探しのストレスから解放され、移動中に本を読んだり、音楽を聴いたり、考え事をしたりする。僕にとっては、こちらのほうが、はるかに「体験価値」が高い。
- 逆に、手放すもの: 「いつか使うかもしれない」と取っておいたモノ。「高かったから」という理由だけで捨てられないモノ。これらは、何の新しい体験も生み出さず、ただ僕の思考のノイズとなり、物理的なスペースを奪うだけの存在だ。体験価値が低い、あるいはマイナスのモノは、僕の人生にはもう必要ない。
この新しい物差しを手に入れたことで、僕の消費は、見栄や承認欲求を満たすための「浪費」から、自分の人生を豊かにするための「投資」へと、その意味を大きく変えたのだ。
これは「老い」ではなく、「成熟」だ
さて、冒頭の問いに戻ろう。 「オッサンになると、みんなこんな感じになるのかな?」
もし、これを「老い」という言葉で片付けてしまうなら、それは少し寂しい。僕は、この変化を、むしろ「成熟」と呼びたい。
自分にとって、何が本当に重要で、何がそうでないのかを見極める力。 他人の評価軸ではなく、自分自身の「心地よさ」や「納得感」を信じられるようになること。 有限である時間やお金を、見せかけの満足ではなく、永続的な記憶や経験に変えていく知恵。
これらは、人生という長い旅路を経て、僕たちがようやく手に入れることのできる、尊いスキルなのだ。
もし、あなたも最近、クローゼットに並んだブランド服に少し気恥ずかしさを感じたり、高級時計の重さにふと我に返ったりすることがあるのなら。それは、あなたの人生が、より本質的で、より自由な、新しいチャプターへと進み始めた、喜ばしい合図なのかもしれない。
モノに満たされる時代は終わった。 これからは、心揺さぶる「体験」で、僕たちの人生を満たしていこうじゃないか。