人生論

あなたの人生が「生きづらい」のは、全部あなたのせいである

2025年8月13日

もし、あなたが今、漠然とした「生きづらさ」を感じているのなら。 もし、理由のない焦りや、他人への嫉妬、自分への無力感に苛まれているのなら。

その“生きづらさ”を生み出している元凶は、社会でも、環境でも、他の誰かでもなく、あなた自身かもしれない。

これは、決してあなたを責めるための言葉ではない。むしろ逆だ。 あなたを苦しめているものの正体が、自分自身の内側にあるのだとすれば、それを手放し、解放する力もまた、あなた自身の内側にこそ宿っている、ということだからだ。

この記事は、我々の多くが無意識のうちにかかってしまっている、「比較」という名の、人類最古にして最強の呪いの正体を暴き、そこから自由になり、驚くほど軽やかに、自分自身の人生を取り戻すための、思考の処方箋である。

1. 虫は、自己否定をするだろうか?

道端に咲くタンポポは、「なぜ自分は、華やかな薔薇ではないのか」と嘆くだろうか。 地面を這う甲虫は、「なぜ自分は、優雅に空を舞う蝶ではないのか」と、自らの存在を恥じるだろうか。

答えは、否だ。 自然界の生き物たちは、ただ、在るがままに在る。 それぞれが、与えられた環境の中で、与えられた役割を、ただ淡々と、しかし全力で生き抜いている。そこに、他者との比較から生まれる、自己否定や劣等感といった概念は存在しない。

彼らは、上を見ない。下も見ない。ただ、自分のいる場所で、自分の生を生きることに集中している。

翻って、我々人間はどうだろうか。 我々は、高度な知能と引き換えに、他者と自分を比較し、自らを相対的な座標軸の中に位置づけ、そして苦しむという、厄介な能力を手に入れてしまった。

生きづらさの根源は、ここにある。 それは、我々が、自然界の摂理から外れた、極めて「不自然」で、自虐的な精神活動に、あまりにも多くのエネルギーを浪費している、という事実に他ならない。

2. 「比較」という、終わりのない地獄

「比較」という病は、我々の心を、二つの方向から蝕んでいく。

一つは、「上を見る」ことによる、嫉妬と劣等感だ。 SNSを開けば、自分より豪華な家に住み、高価な車に乗り、輝かしいキャリアを築いているように見える人々の人生が、洪水のように流れ込んでくる。

彼らの「ハイライトシーン」と、自分の「舞台裏の日常」を比較すれば、自己肯定感が削られていくのは当然だ。しかし、このゲームには、終わりがない。どれだけ資産を築いても、どれだけ社会的地位を得ても、上には上がいる。上を見続ける限り、我々は永遠に、満たされることのない渇きと、劣等感という地獄を彷徨い続けることになる。

もう一つは、「下を見る」ことによる、歪んだ優越感だ。 自分より恵まれないと感じる人を見つけ、「それに比べて、自分はまだマシだ」と、安堵する。これは、一見、心を安定させる行為に見えるかもしれない。しかし、その実態は、他者の不幸を燃料にして、自分の自尊心をかろうじて維持しているだけの、極めて不健康で、脆い精神状態だ。その優越感は、状況が少し変われば、すぐに劣等感へと反転してしまう、砂上の楼閣に過ぎない。

比較とは、上を見ても、下を見ても、我々から心の平穏を奪い去る、巧妙な罠なのである。

3. デジタル社会が仕掛けた、巨大な「比較」の罠

この「比較」という古来の病を、現代において、かつてないほど深刻化させているのが、インターネットとSNSの存在だ。

かつて、我々の比較対象は、せいぜい同じ村の住人や、会社の同僚といった、ごく限られた範囲の人間だった。 しかし、デジタル社会は、その垣根を、跡形もなく破壊した。

我々は今や、世界中の成功者たちの、最も輝かしい瞬間を、リアルタイムで覗き見ることができる。それは、地球上の全人類を、一つの巨大な教室に押し込み、資産額、役職、容姿、フォロワー数といった、極めて分かりやすい「偏差値」によって、序列化するようなものだ。

さらに厄介なのは、SNSが「幸せの基準」そのものを、画一化してしまうことだ。 高級ホテルでのディナー、南の島でのバカンス、ブランド品に囲まれた生活。そうした、記号化された「幸せ」のイメージが、大量に流通することで、我々は無意識のうちに、「こういう人生こそが、幸せなのだ」と刷り込まれてしまう。

自分が本当に望んでいるわけでもない「テンプレート化された幸せ」を追いかけ、それが手に入らない自分を、不幸だと感じてしまう。これこそが、デジタル社会が我々に仕掛けた、最大の罠なのである。

資産額の多寡と、幸福度の大小が、あたかも同じグラフで上昇していくかのような、大きな錯覚。この呪縛を解かない限り、我々の生きづらさが、消えることはない。

4. 上を見るな、下を見るな。ただ、自分を見よ。

では、どうすれば、この比較地獄から抜け出せるのか。 その方法は、驚くほどシンプルだ。

上を見るな。下を見るな。比較するな。 ただ、これだけである。

もちろん、健全な競争心が、自己成長の起爆剤となることもあるだろう。ライバルの存在が、自分をより高みへと引き上げてくれることもある。しかし、その比較によって、あなたの心が苦しくなり、自己否定に陥るのであれば、それはあなたにとって、もはや「毒」でしかない。今すぐにでも、手放すべき思考の“癖”なのだ。

これは、日々の意識的な訓練によって、少しずつ矯正していくことができる。 他人と自分を比較しそうになった瞬間に、それに気づき、意識のベクトルを、ぐっと自分の内側に向けるのだ。

そして、こう自問する。 「他人は関係ない。今、自分はどう感じている?」 「僕は、何に喜びを感じ、何を大切にしたいのか?」 「昨日の自分より、今日の自分は、ほんの少しでも前に進めたか?」

あなたの周りにもいるはずだ。あなたより所得は低いかもしれないが、毎日を心から楽しみ、幸せそうに生きている人が。なぜ、彼らは幸せなのか。 答えは、彼らが「他人を見ていない」からだ。彼らは、自分の人生に、完全に集中している。隣の芝生の青さを気にする暇があったら、自分の庭に、自分の好きな花を植えることに、時間とエネルギーを注いでいるのだ。

これが、我々が目指すべき境地である。

結論:資産額と幸福度は、比例しない

僕が、このブログを通じて、資産形成の重要性を語るのは、お金そのものが、人生の目的だと考えているからではない。

僕が目指しているのは、お金の力によって、「お金のことを考えなくていい自由」を手に入れることだ。

資産という、経済的な土台を築くことで、我々は、他人との比較という、不毛なゲームから、いつでも降りることができるようになる。生活のために、嫌な競争に参加する必要もなくなる。

そして、その先にあるもの。 それは、他人の物差しではなく、自分自身の物差しで、自分の幸福を定義し、追求する人生だ。

資産額と幸福度は、決して比例しない。 ある一定の水準を超えれば、資産の増加がもたらす幸福への貢献度は、急速に逓減していく。本当に大切なのは、自分が「これで十分だ」と心から思える「足るを知る」感覚と、日々の暮らしの中に、ささやかな喜びを見出す感性なのである。

あなたの人生は、誰とも比較不可能な、一度きりの、尊い作品だ。 他人の作品を羨むのは、もうやめにしよう。

他人の評価という呪縛を解き放ち、自分自身の人生の、静かで、しかし、確かな手応えのある幸福を、今この瞬間から、味わい尽くしていこうではないか。

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