年々、健康への怖さというか、「年齢を重ねること」に対するリアルな恐怖を感じるようになってきた。
ネットのニュースを開けば、若くしてガンで亡くなる人たちの記事が目に飛び込んでくる。
最近読んだのは、「『前兆は全くなかった』48歳・3児の“超健康”ママが『余命2か月』の膵臓がんに…家族と紡ぐ笑顔の記録」という記事や、「《藤乃あおいさん追悼》24歳で“悪性の希少がん”発覚、医者は『腫瘍が大きくなりすぎて、窒息死するかも』と…27歳で亡くなった元グラビアアイドルの“壮絶な闘病の記録”」といった記事だ。
もちろん、頭では理解している。
彼らはコンマ数パーセントの悪運を引いてしまったケースであり、いわゆる奇病の類なのだと。
宝くじが当たる確率と同じような確率で、たまたまそのクジを引いてしまったのだと。
それをただ「悪運」という言葉で片付けるにはあまりにも可哀想だけれど、確率論としてそういう残酷な現実がたしかに存在している。
じゃあ、もしかしたら私も、明日突然そのクジを引いて死ぬかもしれない。
その時に後悔するだろうか?
間違いなく、めちゃくちゃ後悔すると思う。
今まで見栄も張らず、必死に節約して資産を5000万円まで貯め込んだのに、そのお金がもたらすはずだった経験や体験を一切回収できずに死んでいく。
これほどの無念はない。
「足るを知る」という幸せと、すぐ飽きるウナギ
自分の人生を振り返れば、ある程度「やり切った」と思える部分は確かにある。
仕事も頑張ってきた。
社会人になってからも学業に食らいつき、それなりに名の通った大学を出て、今の会社では役職も得ている。
世間で言うところの高年収の部類に入り、家族にも恵まれた。
客観的に見れば、私は間違いなく幸せな部類だ。
不幸ではないのだから、それが「幸せ」ということなのだろう。
幸せというのは、結局のところ「足るを知ること」から始まるのだと思う。
それに、ドラマチックで刺激的な「幸せ」なんて、そう頻繁には訪れない。
なぜなら、人間はどんなに幸せな状態でも、すぐにそれが「当たり前」になってしまう生き物だからだ。
例えば、毎日高級なウナギを食ってみればいい。
絶対に1週間で飽きる。
「ウナギ、もうしつこいわ(笑)」ってなるはずだ。
どんな贅沢も、それが日常の基準になってしまえばただの風景に溶け込んでしまう。
そういうもんなんだと思う。
私は今の状況で十分幸せだ。
でも、心の奥底では常に「物足りなさ」と「えも言えぬ不安」を感じている。
資産5000万の盾が全く通用しない「ミッドライフクライシス」
これだけ必死に資産形成をして、5000万円という生活防衛の盾を手に入れたのに、なぜこんなに不安なのか。自分でもわけがわからないけれど、これが真理なんだと思う。
いずれガンになるかもしれない。
いや、もしかしたら今すでに、自覚症状がないだけでガン細胞が育っているのかもしれない。
これが一番怖い。
過去に負った大きなケガのせいで、今でも若干の後遺症はある。
歳をとれば、加齢や事故でいつ車椅子生活になるかもわからない。
20代の若いうちは、自分が病気になったり動けなくなったりすることなんて1ミリも考えなかった。
でも、40歳を目前にした今、そういう「体の限界」や「終わりの始まり」をリアルに気にしてしまう。自分がそうなってしまったらと思うと、本当にしんどくなる。
いわゆる「ミッドライフクライシス(中年の危機)」というやつかもしれない。
人生の中間地点に立ち、これまでのキャリアや家庭の「答え合わせ」はある程度終わった。
十分やってきたという自負はある。
でも、同時に「これからの限界」が見えてしまって、その先の状況に絶望している自分がいる。
ダラダラとスマホを見て溶けていく「限りある命」
だからといって、「どうせ死ぬんだから宵越しの金は持たない!」と豪遊できるかというと、そういう話ではないのも分かっている。
結局は、将来への備えと今を楽しむことの「バランス」が大事なのだ。
頭では分かっている。
分かっているけれど、感情の部分では受け止めきれないモヤモヤがある。
「明日死ぬかもしれないんだから、今を精一杯生きているのか?」と自分に問うてみる。
現実はどうだ。
全然、精一杯なんて生きていない。
ダラダラ生きてる。
ちょっと空き時間ができれば、何の意味もなくスマホを開いてSNSや動画を見て時間を溶かしている。
5000万円という資本がありながら、私は自分の限りあるリソース(時間とお金)を何に投下して、何から「幸福」を回収すべきなのかが、いまだに分かっていないのだ。
でも、そうやって迷い、苦しみ、葛藤した果てに、何かしらの自分なりの「答え合わせ」が待っているのかなとも思う。
どう死ぬかは選べない。でも、どう生きるかは選べる
若さは永遠ではないし、人はみないずれ死ぬ。
事故で死ぬのか、病気で死ぬのか、老衰で死ぬのか。
自分の最後がどうなるかは絶対に選べない。
でも、確実に死に向かっている自分を自覚し、これから死にゆく人たちの壮絶な記録から目を背けずに観察することで、得られるものも確実にあると思う。
明日死ぬかもしれないという危機感を頭の片隅に置きつつ、それでもやってくるかもしれない未来を見据えて積み立てを続ける。
本当に難しいバランスゲームだ。
でも、いつか死を迎えたときに「悔いなく、自分なりに幸せな人生だった」と思って目を閉じたい。
この得体の知れない不安や葛藤もすべてひっくるめて、40歳を迎えようとする私の「リアルな現在地」として、ここに言語化して残しておこうと思う。