なぜ、僕たちは「足し算」の呪縛から逃れられないのか

「死ぬまでにしたい100のこと」 私たちは、人生とは何かを「足し算」していくものだと、教えられてきた。 より多くの経験、より多くの達成、より多くのモノ。そのリストを埋め尽くすことこそが、豊かな人生なのだと。
しかし、40歳を目前にした私は、その考え方に、ある種の息苦しさを感じるようになった。
リストを埋めるための、終わりのないタスク。常に何かに追われ、消費し続ける毎日。 それは、本当に「豊かさ」なのだろうか。
私は、人生の後半戦において、幸福度を高める鍵は「足し算」ではないと確信している。 それは、むしろ「引き算」だ。
この記事は、私が、いかにしてその「足し算」の呪縛から抜け出したか。そして、人生をよりシンプルに、そして、より本質的にするために、自らに課している「死ぬまでに“やらないこと”リスト」、すなわち、私だけの「アンチ・バケットリスト」についての物語である。
「引き算」こそが、人生の“純度”を高める

なぜ「やらないこと」を決めることが、それほどまでに重要なのか。 その理由は、私たちの、最も貴重な資産である「時間」と「精神的エネルギー」が、有限であるという、動かしがたい事実にある。
私たちが、価値のない何かに「YES」と言うたび、本当に価値のある、何かに対して、無意識のうちに「NO」と言ってしまっているのだ。
意図的に「やらないこと」を決めるという行為は、人生という庭園から、雑草を抜き取る作業に似ている。雑草を抜き取って初めて、私たちは、自分が本当に育てたいと願う、美しい花に、十分な太陽の光と栄養を、注ぐことができるようになる。
私が、もう二度と“やらない”と決めたこと

では、私が、自らの人生から、永久に追放すると決めた「アンチ・バケットリスト」の一部を、その理由と共に公開しよう。
① 義理の飲み会には、参加しない
まず、時間の浪費、お金の浪費、そして、何より健康の浪費である。 そこに、本質的な人間関係の深化や、知的な発見がないのであれば、私が、その場所にいる理由はない。私の、貴重な夜の時間は家族と過ごすか、あるいは、一人の静かな思索のために使われるべきだ。
② 目的のない情報収集は、しない
スマートフォンの画面を、目的もなく、ただ、スクロールし続ける行為。 それは、インプットではない。それは、他人の意図によって汚染された情報を、自らの脳に垂れ流し続けるだけの「精神的な汚染行為」である。 私が、情報を、摂取するのは、明確な「問い」と「目的」がある時だけだ。
③ 他人との比較は、しない
かつての私は、常に、他人と自分を、比較していた。 しかし、そのゲームは、勝者のいない、終わりのない、消耗戦だ。 私が、比較すべき、唯一の相手。それは「昨日の自分」だけである。 私の人生には、私の、物差しだけがあればいい。
④ 気の進まない“お願い”は、引き受けない
「良い人」で、あろうとするな。 他人の、期待に応えるために、自分の心を、偽り、貴重な時間を、差し出すこと。 それは、自分自身に対する、最も、卑劣な「裏切り行為」だ。 断る、勇気を持つこと。それこそが、自律した、大人の、最初の条件である。
⑤ 見栄のための消費は、しない
私の自己肯定感は、私が何を持っているかでは決まらない。 私がどんな人間であるかによって決まる。 私がお金を払うのは、そのモノが持つ本質的な「機能」か、あるいは、私の人生を豊かにする「体験」に対してのみだ。
結論:君は、君の人生の“編集長”であれ

「アンチ・バケットリスト」を作るという行為。 それは、決して、ネガティブな、諦めの哲学ではない。 それは、自分自身の人生という名の、一度きりの“作品”の、純度を、最大限に、高めるための、極めて、創造的で、力強い「編集作業」なのだ。
何を残し、何を削ぎ落とすか。 その、選択と決断のすべてが、君という人間の輪郭を、よりシャープに、そして美しくしていく。
さあ、君もペンを取れ。 そして、君だけの「やらないことリスト」を作り始めよう。 その空白のページにこそ、君が本当に望む人生の始まりが記されるのだから。