
その“サイン”は、日常の些細な言葉に宿る
最近、自分でも気づかないうちに、口から滑り出てしまう言葉がある。
「本来、仕事とは“こうあるべき”だ」 「今の若い世代は、〇〇という視点が“足りない”」
この「べき論」が、僕の思考を支配する頻度が、明らかに増えている。そして、その言葉を発した直後に、僕はいつも、背筋が凍るような、静かな恐怖に襲われるのだ。
「ああ、俺は今、“老害”になっていたな」と。
かつて僕が、心の底から軽蔑し、嫌悪していた、あの中年や老人の姿。その姿が、鏡の中にいる38歳の自分自身に、少しずつ、しかし確実に、重なり始めている。
この記事は、そんな僕が、自らの内面で起きている「老害化」という、抗いがたい変化の兆候と、その根底にある絶望、そして、それでもなお、僕たちがどうすれば、この避けられない「老い」という現実と、尊厳を持って向き合えるのかについての、極めて個人的な、内省の記録である。
なぜ、僕はあれほど「老害」を憎んでいたのか
僕の「老害」への憎悪は、一つの原体験に根差している。 20代の頃、僕は、ある上司と定期的に飲みに行っていた。いや、正確には「行かされていた」。彼は、酒が入ると、決まって同じ武勇伝と、僕の仕事ぶりに対する説教を、延々と繰り返した。
彼の言葉に、僕の成長を願う愛情など、ひとかけらもなかった。 そこにあったのは、ただ、酒の力で気持ちよくなり、若い人間を自分の支配下に置くことで、自らの自尊心を満たしたいという、醜い欲望だけだった。僕は、彼の自己満足のために、人生の貴重な時間を、ただひたすらに奪われ続けていた。
この経験から、僕にとっての「老害」の定義は、明確になった。 それは、自らの過去の成功体験や価値観を、絶対的な「正義」として振りかざし、それを他者(特に若者)に一方的に押し付けることで、相手の時間と、可能性と、尊厳を奪う存在だ。
相手のためを思っているフリをしながら、その実、やっていることは、ただの知的怠慢と、自己満足のための搾取。 だから、僕は老害が嫌いだ。若い人から何かを「吸収しよう」と、馴れ馴れしく近づいてくるタイプの老害も、同罪だ。彼らもまた、若者のエネルギーを、自らの若返りのために搾取しているに過ぎない。
恐ろしいのは、僕の中に“彼ら”と同じ兆候を見出すこと
しかし、今、僕が本当に恐れているのは、過去の上司ではない。 僕自身の内側に、彼らと同じ“老害”の芽が、育ち始めているという、動かしがたい事実だ。
① 思考の“固定化”と、変化への“恐怖”
20代の頃の僕は、もっと無謀だった。仕事が辛ければ、後先考えずに辞め、転職活動をした。変化は、刺激であり、可能性そのものだった。 しかし、38歳の僕は、どうだ。 今の安定した地位と、年収を失うリスクを計算し、転職という選択肢に、無意識のうちにブレーキをかけてしまう。僕は、明らかに「変化」を好まなくなってきている。思考は、これまでの成功体験に縛られ、保守的になっている。
② 分かった“つもり”になる、という傲慢
他人の悩みを聞いた時、「ああ、それはね…」と、あたかも自分がすべてを理解しているかのように、語り始めてしまうことがある。 若者が抱える問題の複雑さや、時代背景の違いを無視して、自分の古い物差しで、安易に物事を判断してしまう。これは、かつて僕が最も嫌悪した、老害の振る舞いそのものではないか。
③ 学びへの“飽き”
「そんな自分を変えたい」という一心で、僕は今もMBAに通い、学び続けている。しかし、正直に言えば、その学びですら、当初の新鮮さを失い、「飽き」を感じ始めている自分もいる。新しい知識に触れても、「ああ、これも、あのパターンの応用だな」と、冷めた目で見てしまう。
この、あらゆる物事に対する、感動や情熱の“風化”。 これこそが、「老い」の、最も恐ろしい正体なのかもしれない。
僕が夢見る、理想の“老い方” - 仙人という名の、静かな隠居
では、僕は、どんな老人になりたいのか。 その問いの先に、僕がぼんやりと思い描くのは、「仙人」のような生き方だ。
社会の喧騒から、静かに身を引き、誰にも迷惑をかけず、ただ、穏やかに暮らす。 僕がこう考えるのは、単に隠居したいからではない。そこには、僕なりの、次世代に対する、一つの“責任”の形がある。
僕たち古い世代が、いつまでも組織の上の地位に「のさばる」ことは、それだけで、若い世代の、貴重な成長機会と、成功体験を奪う“罪”なのだ。 僕たちは、彼らが自由に、そして大胆に失敗できる「空白」を、意図的に作ってやるべきなのだ。
だから、僕は、若い人の近くで、彼らの行動を見守るようなことすら、したくない。 見ている。その時点で、僕たちは、すでに見えざる影響を与え、彼らの自由な発想を、無意識のうちに縛り付けてしまう可能性があるからだ。
静かに、消えていく。 それが、僕が、僕の嫌いな「老害」にならないための、唯一の方法なのかもしれない。
それでも残る、矛盾した“願い”
しかし、僕の中には、もう一つの、矛盾した願いも、確かに存在する。 それは、完全に消え去るのではなく、誰かの「見本」でありたい、という、青臭い願望だ。 人並みに老いていく中で、それでも、若い世代から「あの人のようになりたい」と、密かに思われるような、そんな年の重ね方をしたい、と。
この、「隠居したい」という願いと、「見本でありたい」という願い。 この二つの矛盾こそが、今の僕の、どうしようもない現在地なのだ。
結論:僕たちにできる、唯一のこと
老いることは、避けられない。 そして、その過程で、僕たちの思考が硬直し、変化を嫌うようになるのも、ある程度は、仕方のないことなのかもしれない。
では、僕たちは、ただ絶望し、自分が嫌悪する「老害」へと、成り果てていくのを、待つしかないのか。
いや、一つだけ、僕たちにできる、ささやかで、しかし最も重要な「抵抗」があると、僕は信じている。 それは、「自分自身が、今、老害化しつつあるという事実を、常に、自覚し続けること」だ。
- 「べき論」を語りそうになった瞬間に、ぐっと、その言葉を飲み込む。
- 自分の経験則だけで物事を判断しそうになった時、「本当にそうか?」と、自分自身に問いかける。
- 若者の言葉に、分かったような顔で頷くのではなく、その背景にある、自分の知らない価値観に、謙虚に耳を傾ける。
完璧には、できないかもしれない。 しかし、この「自覚」という名の、か細いブレーキを持ち続ける限り、僕たちは、決して、あの醜い怪物に、完全には成り果てないでいられるはずだ。
老害になっていく自分が、悲しい。 しかし、その「悲しみ」こそが、僕を、かろうじて、人間たらしめている、最後の希望なのかもしれない。