人間関係

泣く女は守られる、泣く男は笑われる──これが男女平等ですか?

泣く女は守られ、泣く男は笑われる。

「男女平等」。 この、あまりにも美しく、そして、誰もが反論できない“正義”の言葉。 僕も、その理想を、信じて疑わなかった一人だ。

しかし、30代も後半に差し掛かり、社会という名の、理不尽な戦場を、必死で生き抜く中で、僕の目には、全く別の景色が映るようになった。

僕たちが生きているのは、真に平等な、理想郷などではない。 それは、“都合のいい部分”だけが切り取られ、歪に運用される、偽りの平等。 そして、その歪みのしわ寄せが、僕たち男性の、声なき悲鳴となって、社会の底に、澱のように溜まっている。

これは、女性を攻撃するための、陳腐な告発ではない。 これは、「男女平等」という、美しい理想の影で、僕たち男性が、いかにして「裸足」で走ることを強いられているか。その、これまで、誰もが口にすることをためらってきた、不都合な真実を、白日の下に晒すための、一つの“宣戦布告”である。

女性が履かせてもらっている、三つの“下駄”

「男性の方が、優遇されている」。 そう信じている人にこそ、聞いてほしい。現代の女性たちが、社会から、暗黙のうちに与えられている、三つの、強力な“下駄”の存在について。

①「ポジティブ・アクション」という名の、逆差別

就職活動や、社内での昇進。 本来、そこにあるべきは、性別など関係のない、純粋な「実力主義」のはずだ。 しかし、現実には、「女性管理職比率」といった、企業の体面を飾るための“数字”が、優先される。

全く同じ能力、全く同じ実績を持つ、男性と女性が、一つの椅子を争った時。 「女性活躍推進」という、大義名分のもと、その椅子が、女性に譲られる光景を、僕たちは、何度、目にしてきただろうか。

これは、平等ではない。 これは、性別を理由とした、明確な「逆差別」だ。 僕たち男性は、スタートラインに立った時点で、見えない“鉛”を、その足首に、括り付けられている。

②「共感」という名の、絶対的な盾

メディアの扱いを、思い出してみてほしい。 女性が、過労で倒れれば、それは、社会構造の問題として、大きく報道され、世論の「共感」を呼ぶ。 しかし、男性が、同じように過労死しても、それは、「自己責任」「管理能力の欠如」といった、個人の問題として、片付けられてはいないだろうか。

女性の涙は、社会の同情を集める“武器”となる。 しかし、男性の涙は、「情けない」「男らしくない」と、嘲笑の的になる。 この、圧倒的な感情の非対称性。女性は「守られるべき存在」として、社会からの共感を、無条件に享受できるという“下駄”を、履いている。

③「奢られて当然」という、恋愛市場での特権

そして、最も根深いのが、この問題だ。 「おごり・おごられ論争」で、なぜ、議論は常に「男性がおごる」か「割り勘」の、二択しかないのだろうか。 真に平等ならば、そこに「女性がおごる」という、三つ目の選択肢が、当たり前に存在すべきではないか。

恋愛や、婚活の市場において、女性は、いまだに「選ぶ側」であり、「ケアされる側」であることが、前提となっている。 男性は、その気を引くために、経済力を示し、努力し、尽くすことが、当然とされている。

平等な権利は、主張する。しかし、都合の良い、古い特権は、決して手放さない。 この、あまりにも虫の良いダブルスタンダードが、僕たち男性を、静かに、しかし、確実に疲弊させていく。

僕たち男性が、決して“愚痴”をこぼせない、本当の理由

一方で、僕たち男性は、これらの理不-尽に対して、決して「しんどい」と、口にすることが許されない。 なぜなら、「男のくせに、情けない」という、たった一言で、そのすべての叫びが、封殺されてしまうからだ。

僕たちは、弱音を吐くことを、禁じられている。 僕たちは、涙を流すことを、許されていない。 僕たちは、ただ、強く、そして、黙って、この、裸足で走らされる、不毛なレースを、走り続けるしかないのだ。

結論:僕たちは、どこで“間違えた”のか

ここまで読んで、こう思う女性も、いるだろう。 「女にだって、女の地獄がある」と。

その通りだ。 僕は、それを、決して否定しない。 出産による、キャリアの中断。社会が押し付ける、美しさの基準。そして、性的な搾取や、暴力への恐怖。女性たちが、男性とは、全く質の違う、しかし、同じように、深刻な「生きづらさ」を、抱えていることも、また事実だ。

では、一体、何が、この、「男も、女も、誰も幸せにならない」という、救いのない状況を、生み出してしまったのか。

僕が思うに、その根源は、僕たちが、あまりにも拙速に、そして、表層的に、「男女平等」という“結果”だけを、追い求めてしまったことにある。

古い社会構造や、根深い性別役割分業の意識を、そのままに、ただ、制度や、言葉の上だけで「平等」を謳った。その結果、生まれたのが、古い「責任」と、新しい「義務」が、複雑に絡み合った、この、歪で、矛盾に満ちた世界なのだ。

では、どうすればいいのか

この記事は、男女の分断を煽るためのものではない。 むしろ、その逆だ。

僕が、本当に望むのは、僕たち男性が抱える、この「見えない生きづらさ」もまた、社会の、正式な“議題”として、テーブルの上に、載せられることだ。

女性の権利が、声高に叫ばれるのと同じくらい、男性の苦悩もまた、真剣に、語られるべきではないか。 「男だから」という、一言で、そのすべての痛みを、無視し続けていいはずがない。

本当の意味での「男女平等」とは、どちらか一方の性だけが、下駄を履くことではない。 それは、男も、女も、共に、その窮屈な“下駄”と“裸足”を脱ぎ捨て、自分らしい、歩きやすい“靴”を、自由に選べる社会の、ことではないのだろうか。

その、まだ誰も見たことのない、本当の意味で、フェアなスタートラインに立つために。 僕たちは、まず、互いが抱える、それぞれの「痛み」を、正直に、そして、誠実に、語り合うことから、始めなければならない。

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