健康

夏が好きと言っている人はオカシイと思う

2025年8月24日

決して交わらない、季節をめぐる対話

先日、ある女性と「夏と冬、どっちがいい?」という、ありふれた会話になった。多くの人が、人生で一度は交わしたことがあるであろう、他愛もない問いだ。

彼女は、目を輝かせながら即答した。「断然、夏ですよ!」と。 彼女が語る夏の魅力は、実に明快で、エネルギッシュだった。キンキンに冷えたビールが美味しいビアホール、友人たちと出かける海、開放的な気分にさせてくれる数々のアクティビティ 。対して冬は、日が短くて気が滅入るし、寒くて何もする気が起きない。楽しいことが何もない季節なのだという。  

その熱弁を聞きながら、僕は静かに、しかし断固として心の中で反論していた。 僕にとっては、冬の方が、まだマシだ、と。

僕が冬を支持する理由は、彼女のそれとは対極にある。汗をかかないことの快適さ 。特に、趣味である温浴施設やサウナの帰り道、湯上がりで火照った身体が、冷たく澄んだ冬の空気に触れるあの心地よさ。夏であれば、その快感は家に着くまでの汗で台無しになってしまう。  

そもそも、近年の日本の夏は、もはや「暑い」というレベルを超えている 。肌を刺すような日差しは、もはや「痛い」と感じるほどの暴力性を帯び、外に出て何かをしようという気力そのものを奪い去っていく。  

この、決して交わることのない平行線。 表面的な好みの話に見えるが、僕は、この根底にもっと深い、僕たちの身体に刻まれた生物学的なOS(オペレーティングシステム)の違いが隠されているのではないかと、密かに考えている。


第一章:「夏派」の論理 - なぜ彼女は、太陽と熱狂を求めるのか

彼女の「夏が好き」という主張を、単なる「イベント好き」で片付けてしまうのは、あまりにも浅薄だろう。その背後には、人間という生物が持つ、極めて合理的な二つのメカニズムが働いている可能性がある。

① 冬に「気が滅入る」のは、科学的な真実かもしれない

彼女が言った「冬は気が滅入る」という言葉。これは、単なる気分の問題ではない可能性がある。その鍵を握るのが、日照時間と、僕たちの脳内で分泌される「セロトニン」という神経伝達物質だ 。  

セロトニンは、精神の安定や安心感をもたらすことから「幸せホルモン」とも呼ばれる。そして、このセロトニンの分泌は、太陽の光を浴びることで活性化されることが分かっている 。  

つまり、日照時間が短い冬は、必然的にセロトニンの分泌量が減少し、気分が落ち込みやすくなるのだ 。これが深刻化したものが「季節性情動障害(SAD)」、通称「冬季うつ病」と呼ばれるもので、過眠や過食、気力の低下といった症状を伴う 。  

彼女が冬に感じる気分の落ち込みは、このセロトニンの減少に起因する、極めて自然な身体の反応なのかもしれない。だからこそ、太陽が燦々と輝き、セロトニンが満ち溢れる夏に、生命の躍動と解放感を覚えるのだ。

② 「基礎体温」が、活動のスイッチを決めている?

そして、僕が抱いたもう一つの仮説。それは、彼女の基礎体温が、僕よりも低いのではないか、という推測だ。

一般的に、女性は男性に比べて筋肉量が少なく、皮下脂肪が多い。筋肉は体内で熱を生み出す最大のエンジンであるため、筋肉量が少ない女性は、男性よりも熱産生能力が低く、身体が冷えやすい傾向にある 。男女間の体感温度には、約2℃もの差があるという研究もある 。  

もし彼女が、僕よりも基礎体温が低く、熱を生み出しにくい身体の持ち主だとしたら。 冬の寒さは、彼女の身体から容赦なく熱を奪い、活動するためのエネルギーそのものを削いでしまうだろう。「寒くて動く気が起きない」のは、当然の帰結だ。

逆に、夏。高い外気温は、彼女にとって、自らの身体を「活動モード」に切り替えるための、外部からのエネルギープーストとして機能するのかもしれない。気温が上がって初めて、身体がスムーズに動き出し、ビアホールや海へ向かう活力が湧いてくる。

彼女にとっての夏は、生命活動のスイッチを入れてくれる、必要不可欠な季節なのかもしれない。


第二章:「冬派」の哲学 - なぜ僕は、静寂とコントロールを愛するのか

対して、僕のような「冬派」の人間は、何を求めているのか。それは、夏派とは全く異なる、内向きの価値観に基づいている。

① 汗という名の「コントロール不能」からの逃避

僕が夏を嫌う最大の理由は、「汗」だ 。  

汗をかくこと自体は、体温調節という重要な生命維持機能だ 。しかし、現代の都市生活における汗は、不快指数の塊でしかない。ベタつく肌、服にできるシミ、気になる臭い。そして何より、僕が最も許せないのが、せっかくサウナ後の温浴施設で得た、あの清潔で研ぎ澄まされた感覚が、帰り道の汗でいとも簡単に汚されてしまうことだ。  

これは、僕の価値観の根幹にある「自律」と「納得感」に関わる問題だ。僕は、自分の状態を、可能な限り自分のコントロール下に置きたい。しかし、夏の猛暑と湿度の前では、汗という生理現象は、僕の意思を完全に無視して、身体の内側から溢れ出してくる。この「コントロール不能」な状態が、僕にとっては耐え難いストレスなのだ。

その点、冬はいい。寒ければ、一枚多く着ればいい。暑ければ、一枚脱げばいい。自分の身体の状態を、自分の意思でマネジメントできる。このコントロール感こそが、僕に精神的な平穏をもたらしてくれる。

② 危険な暑さからの、戦略的撤退

そして、もはや看過できないのが、近年の夏の「危険性」だ 。  

かつての夏は、確かにアクティブな季節だったかもしれない。しかし、最高気温が40℃に迫る酷暑日が当たり前になり、アスファルトの照り返しが凶器と化す現代の夏は、もはや生命の危険を感じるレベルだ 。熱中症による救急搬送者数は、毎年、凄まじい数に上る 。  

そんな中で「アクティブに動こう」というのは、あまりにも無謀ではないか。僕が夏に動く気が起きないのは、単なる怠惰ではない。それは、危険な環境に対する、極めて合理的な「戦略的撤退」なのだ。


あなたのOSは、夏仕様か、冬仕様か

夏が好きか、冬が好きか。 この他愛もない問いの裏側には、僕たちの身体に深く刻まれた、生命のOSが隠されている。

日照時間に気分が左右される、セロトニン優位の「夏仕様OS」。 自らの身体をコントロールし、外部の過剰な刺激を嫌う、「冬仕様OS」

どちらが優れているという話ではない。大切なのは、自分の好みや行動パターンの背景にある、自分自身の身体の特性を理解し、受け入れることだ。

もし、あなたが冬になると決まって気分が落ち込むなら、それは意志が弱いからではなく、セロトニンのせいかもしれない。ならば、意識的に朝日を浴びる時間を増やしてみる、という戦略が立てられる 。  

もし、あなたが僕のように、夏の暑さにうんざりしているなら、無理にアクティブになる必要はない。涼しい室内で、静かに自分と向き合う時間を、肯定すればいい。

結局のところ、この対話は、季節の優劣を決めるためのものではない。 それは、自分という、複雑で、面白く、そして唯一無二の存在を、より深く理解するための、最高のきっかけなのかもしれない。

-健康