
あなたは、その時「NO」と言えるか?
「嫌な仕事だ。でも、お金のためだから仕方がない」 「上司の言うことは理不尽だ。でも、逆らったら生きていけない」
僕たちは、心のどこかで、そう自分に言い聞かせながら、日々の労働に従事している。自分の人生の「生殺与奪の権」を、会社という、自分より大きな存在に、静かに明け渡しながら。
ほとんどの人は、それを「生きている」と呼ぶ。 しかし、僕は、それを「生きているとは言えない」と、断言する。 それは、ただ、お金という名の“鎖”に繋がれた、飼い慣らされた状態に過ぎない。
この記事は、そんな僕たちが、本当の意味で「生きる」ために、なぜ「経済的自由(Financial Independence)」、すなわちFIREを目指すべきなのか。その、少しだけ過激で、しかし、あまりにも本質的な理由についての話だ。
これは、南の島で遊んで暮らすための、夢物語ではない。 これは、あなたの魂を、理不尽な世界から守り抜くための、唯一にして最強の“鎧”を、いかにして作り上げるかという、極めて現実的な戦略の話である。
思考実験:もし、あなたが「不正」の片棒を担ぐことを、強要されたら
想像してみてほしい。 ある日、あなたの上司が、あなたの個室にやってきて、こう告げる。 「この数字、少しだけ“調整”して、報告してくれないか」と。
それは、どう見ても、違法な粉飾決算であり、顧客を欺く「不正行為」だ。あなたの倫理観は、警鐘を鳴らす。「絶対に、やってはいけない」と。
しかし、同時に、あなたの頭の中では、もう一人の自分が、冷徹な計算を始める。 「もし、これを断れば、僕はどうなる? 評価は下がり、出世の道は閉ざされるだろう。最悪の場合、この会社に居場所がなくなり、クビになるかもしれない…」
その時、あなたの脳裏をよぎるのは何か。 来月の住宅ローンの返済。子どもの教育費。老後の生活への、漠然とした不安。
さあ、あなたはどうする? 胸の中の、か細い「良心」の声に従い、すべてを失うリスクを取るか。 それとも、家族の生活を守るという「大義名分」のもと、その不正に、手を染めるか。
「金がない」という、すべての“言い訳”の根源
「僕なら、正義を貫く」 そう思っただろうか。しかし、それは、まだあなたが、その究極の状況に立たされていないから言える、安易な理想論かもしれない。
人間は、それほど強くはない。 多くの人は、様々な「事情」を言い訳にして、結局は、不正の片棒を担いでしまうだろう。
- 「家族のためだから、仕方なかった」
- 「僕一人が抵抗しても、何も変わらなかった」
- 「みんな、やっていたことだ」
しかし、その、もっともらしい言い訳の、すべての根源を掘り下げていくと、僕たちは、たった一つの、シンプルな不都合な真実にたどり着く。
金がないからだ。
金がないから、会社という、たった一つの収入源に、依存せざるを得ない。 金がないから、理不尽な命令を、断ることができない。 金がないから、自分の人生の、たった一つの選択肢すら、選ぶことができない。
経済的な従属は、必然的に、精神的な従属へと繋がる。 そして、その先に待っているのは、自分の良心に嘘をつき、魂を安売りする、惨めな人生だ。
FIREという名の“構造的倫理観”
ここで、僕がFIREを目指す、本当の理由を話そう。 それは、働かずに遊んで暮らしたいから、などではない。 僕が目指しているのは、「いつでも、自分の倫理観と納得感に、100%従って、物事を判断できる状態」を、手に入れることだ。
もう一度、先ほどの思考実験に戻ろう。 もし、あなたの銀行口座に、配当金だけで最低限の生活が送れるだけの資産があったとしたら。 その時、あなたの上司の「不正の強要」は、あなたにとって、どれほどの脅威になるだろうか。
あなたの心の声は、こう変わるはずだ。 「この要求は、間違っている。もし、これを断ってクビになるのなら、それは、むしろ好都合だ。こんな腐った会社、こちらから辞めてやる。最低限の生活は、配当金で維持しながら、もっと倫理的で、まともな会社を探せばいい」
恐怖は、消え失せる。 そこにあるのは、どちらの選択をしても、自分の人生は揺るがないという、絶対的な安心感と、そこから生まれる、冷静で、合理的な判断力だけだ。
これが、僕の言う「構造的倫理観」だ。 倫理や道徳とは、個人の「意志の強さ」だけで、成り立つものではない。それは、いかなる状況でも、倫理的な選択ができる「構造」や「条件」を、自ら作り上げておくことで、初めて、その輝きを保つことができるのだ。
FIREとは、単なる資産形成術ではない。 それは、自分自身の“良心”を、この理不尽な社会から守り抜くための、最も強力な、セーフティネットの構築なのである。
目指すのは「完全リタイア」ではなく「判断の“主権”」
誤解しないでほしい。 僕が言う「FIRE」とは、必ずしも、すべての労働から解放され、悠々自適の生活を送ることではない。
僕が目指しているのは、 「配当金という、会社に依存しない収入源があることによって、いつでも“NO”と言えるカードを、懐に忍ばせながら、働くことができる世界」 だ。
その世界では、仕事は、もはや「生活のために、嫌々やらされる苦役」ではない。 それは、自分の価値観に合う限りにおいて、自分のスキルと情熱を注ぎ込む、主体的な「プロジェクト」へと変わる。
嫌な仕事は、断ればいい。 尊敬できない上司の下からは、去ればいい。 自分の魂を、安売りする必要など、どこにもない。
配当金という、ささやかだが、しかし確実な生命線が、僕たちに、その「判断の“主権”」を与えてくれるのだ。
結論:富を築け。己の“魂”のために。
「金が全てではない」 それは、真実だ。しかし、「金がなければ、守れないものが、あまりにも多い」というのもまた、この資本主義社会における、揺るぎない真実である。
僕たちは、自分の倫理観や、尊厳や、そして、人生の選択権といった、お金では買えないはずの、最も大切なものまで、お金がないという、たった一つの理由で、手放してしまいそうになる。
だからこそ、僕は、あなたに、強く言いたい。 FIREを目指せ、と。
それは、贅沢をするためではない。 それは、いざという時に、あなたが、あなた自身の良心に、背かずに済むためだ。 それは、あなたの人生の「生殺与奪の権」を、他人ではなく、あなた自身の手に、取り戻すためだ。
富を築け。 あなたの資産のためではない。 あなたの、たった一つの、かけがえのない“魂”のために。