若い頃、私はとにかくお金を使わない人間だった。
節約が美徳だと信じていたし、無駄な出費を嫌った。割引クーポンを探し、ワンコインランチで済ませ、旅行は夜行バスか青春18きっぷ。何なら、友達との飲み会すら“コスパ”でジャッジしていたように思う。
そんな私が今、サウナ施設に数千円払うことにためらいがない。
ちょっといい寿司屋で静かに一人飲みをする。
旅は「移動が快適か」「その土地で何を感じられるか」で選ぶようになった。
はっきり言って、別人だ。
でもこの変化には、単なる年齢や収入の問題以上に、自分の“価値観の成熟”があると思っている。
ケチだった頃の「守り」の価値観
若い頃のお金の使い方を振り返ると、そこには「損をしたくない」という心理が強く働いていた。
当時の私は、人生における自由を「貯金残高」や「生活コストの低さ」によって担保しようとしていた。つまり、“自由”とは、できるだけ出費を抑え、未来の不安を小さくすることだと信じていたのだ。
これはこれで筋が通っていたと思う。
無駄な消費が多い社会で、何が本当に必要かを考えることは大事だし、自分の軸を持つうえでの基礎体力になった。
ただ、今から振り返ると「お金を使う=悪」と思い込みすぎていたようにも思う。
問題は、「お金を使わないこと」に満足していて、「何に使うべきか」に向き合っていなかったことだ。
快楽に対して正直になった
大きな転機は、自分の“快”に対して素直になれたことだと思う。
それは高級品を買うという話ではない。
例えば、サウナに入って水風呂でキンと整ったあと、木陰のインフィニティチェアで風を浴びてるあの時間。
例えば、旅先で自転車を借りて、何の観光スポットもない田舎道を1時間ただ漕いでるとき。
例えば、こじんまりした居酒屋で、会話もなく隣にいる人と同じ肴を選んで黙々と食べているとき。
そういう“体験”の中にしか、心の芯が震えるような実感はないと気づいてしまった。
気持ちよさを知ると、もう戻れない。
そして、心が動く体験にこそお金を払うべきだと思うようになった。
経験価値に投資する、というスタンス
今の私は、お金を「経験価値を買うもの」だと捉えている。
物にお金を使うことが全て悪いとは思わないけれど、「買ったあとに自分の内側がどう変わるか」を意識して選ぶようになった。
・体験に伴う感情の濃度
・記憶に残るかどうか
・その時間が“自分の人生だった”と言えるか
こういう視点で考えると、1万円のバッグよりも、5000円のサウナと1500円の牛乳ソフトクリームの方が「人生にとって意味がある買い物」になる。
これはある種、倫理観でもある。
消費を通じて、なるべく社会に余計な負荷をかけず、誰かの努力や場所の価値にリスペクトを持って金を使う。その方が気持ちがいい。
自然と共に生きたいなら、自然と調和する使い方をするべきだし、静かな貢献を志すなら、お金も“静かに貢献するかたち”で使いたい。
若い人にこそ、早くから「経験に投資する癖」を持ってほしい
私は20代の自分に、こう言いたい。
「もっと失敗してもよかったし、もっと無駄を経験してよかった」と。
心が動いた瞬間、人生は一歩先に進む。
どんなに節約しても、それだけじゃ生きた心地はしない。
だからこそ、20代のうちから経験に金を使うクセを持ってほしい。
旅でも、イベントでも、人との出会いでもいい。
「損か得か」ではなく、「意味があるか、豊かか」で選んでみてほしい。
その蓄積が、自分らしい価値観を育てる最良の土壌になる。
結局、お金は“価値観を表す道具”なのだ
自由に生きたい。
他人の軸で動きたくない。
納得したことにだけ力を使いたい。
でも、そこに到達するには、自分の内側に「何に金を使いたいか」の指針が必要だ。
お金の使い方は、自分の価値観を言語化せずとも浮き彫りにしてくれる。
どんなに言葉で立派なことを言っていても、最終的に「どこに金を使ってるか」が、その人の価値観の本音を表すと思っている。
私にとって今のお金の使い方は、「人生を濃く味わうための意思表示」だ。
だからこそ、経験に金を使い、少しでも魂が揺れる瞬間を増やすこと。それこそが、自分の自由と自律を支える、本質的な“支出”だと思っている。