働き方

若手に「守りに入った」と言われたら、それは“最高の褒め言葉”かもしれない

その“棘”、僕も、よく知っている

「〇〇さん、最近、ちょっと“守り”に、入ってませんか?」

先日、僕が、メンターとして、目をかけている、20代の、野心あふれる、若手社員から、悪意なく、しかし、ナイフのように、鋭利な、その言葉を、投げかけられた。

その瞬間、僕の心に、チクリと、小さな棘が、刺さったのを、感じた。 「守りに入った」。 その言葉の裏に、潜む、ニュアンス。 「かつての、あなたには、もっと、勢いがあった」 「挑戦を、恐れるように、なったんですね」 「もはや、あなたは、終わった、人間だ」と。

かつての僕なら、その、ちっぽけな棘に、過剰に反応し、焦り、そして、空回りしていただろう。 「そんなことはない!」と、無謀な挑戦に、手を挙げ、自爆していたかもしれない。

しかし、40歳という、人生の、折り返し地点が見えてきた、今の僕は、違う。 僕は、心の中で、静かに、こう、呟いていた。

「ありがとう。君には、まだ、見えていないかもしれないが、それこそが、僕が、今、目指している、新しい“ステージ”なのだよ」と。

この記事は、そんな僕が、いかにして「攻める」ことだけが、正義であった、キャリアの“前半戦”を、卒業したか。 そして、一見すると「守り」に見える、その行為こそが、僕たち、40代にとって、最も、成熟した、そして、新しい形の“攻め”であると、確信するに至ったか。 その、思考の変遷についての、物語である。

なぜ、僕たちの“炎”は、静まっていくのか -“山頂”が見えてしまった者の、必然

まず、僕たちが、認めなければならないのは、若い頃のような、あの、燃え盛るような「野心」や「情熱」は、年齢と共に、確実に、その、勢いを、失っていく、という、自然で、そして、必然的な、事実だ。

20代、30代の僕たちにとって、キャリアとは、一つの、明確な「登山」だった。 「課長」や「部長」といった、分かりやすい「山頂」を目指し、ただ、がむしゃらに、一歩でも、高く、速く、登り続ける。 その、シンプルなゲームには、熱狂があった。

しかし、ある程度の、高さまで、登り詰め、ふと、周りを見渡した時。 僕たちは、気づいてしまう。

  • 山頂に、たどり着けるのは、ごく、一握りの人間だけだ、という、現実。
  • そして、その、山頂からの景色は、自分が、想像していたほど、輝かしいものでは、ないのかもしれない、という、予感。
  • 何よりも、この、酸素の薄い、高地で、これ以上、無理をして、登り続けることの、身体的な、そして、精神的な“限界”。

かつて、僕たちを、突き動かしてきた「山頂に、立ちたい」という、外部からの、動機付けは、その、効力を、失い始める。 そして、僕たちは、静かな「焦り」と共に、立ち尽くすのだ。 「これから、俺は、どこへ、向かえばいいんだ…?」と。

ゲームは、変わった -“征服者”から、“統治者”へ

その、停滞感こそが、僕たちの、キャリアの“後半戦”の、始まりを告げる、ゴングだ。 僕たちが、プレイするべき「ゲーム」は、もはや、領土を、拡大し続ける「征服者」の、ゲームではない。 僕たちが、これから、始めるべきは、手に入れた、領土を、豊かにし、次世代へと、繋いでいく「賢明なる、統治者」の、ゲームなのだ。

そして、その、新しいゲームにおける「モチベーション」の源泉は、もはや、外部の「評価」や「地位」には、ない。 それは、僕たちの「内側」から、静かに、湧き出てくる、三つの、新しい「喜び」だ。

①「育てる」という、喜び - 次世代へと、“知”を、継承する

かつての僕は、自分の「成功」だけを、追い求めていた。 しかし、今の僕の、心の、大部分を、占めるのは、「僕が、いなくなった後も、この“王国”が、繁栄し続けてほしい」という、願いだ。

僕が、これまでの、無数の失敗から、学んできた、知恵や、経験。 それを、かつての僕のように、野心に燃え、しかし、まだ、無力な、若者たちに、分け与える。 彼らが、僕の、肩の上から、さらに、遠い景色を、見てくれること。 それこそが、僕の、後半戦のキャリアにおける、最高の「達成感」となる。

②「体系化する」という、喜び - 自らの“経験”を、“資産”へと、変える

僕の、頭の中には、これまで、僕が、戦い抜いてきた、数々の、戦場の記憶が、眠っている。 それらは、かつては、ただの、断片的な「経験」でしかなかった。

しかし、今の僕には、それらを、客観的に、見つめ直し、普遍的な「知恵」へと、「体系化」する、時間と、視座がある。 僕が、このブログを、書き続けているのも、まさに、この、知的作業の一環だ。 自らの、暗黙知を、誰もが、アクセスできる、形式知へと、変換していく。 この、「自分だけの“図書館”を、築き上げる」という、静かなる、営みは、僕に、深い、知的な満足感を、与えてくれる。

③「自分を、機嫌良くさせる」という、喜び - 仕事を、“遊び”へと、変える

そして、これが、僕の哲学の、核心だ。 「仕事とは、壮大な、暇つぶしである」

もはや、僕は、仕事に、承認欲求や、自己実現といった、重たい意味を、背負わせない。 僕にとって、仕事とは、「僕という、人間が、最も、機嫌良く、そして、知的好奇心に、満たされて、いられるための、最高の“遊び”」なのだ。

自分が、面白いと、思える、課題に、没頭する。 自分の、裁量で、物事を、コントロールできる、快感。 仕事という、ゲームを通じて、僕自身の「機嫌」を、取る。 この、成熟した、大人の“遊び”こそが、僕の、日々の、尽きることのない、エネルギーの、源泉なのである。

結論:「守り」こそが、最強の「攻め」である

もう一度、あの、若者の言葉を、思い出そう。 「守りに入った」

その言葉は、何を、意味していたのか。 それは、僕が、もはや、守るべきものが、何もない、無謀な「兵士」ではなく、守るべき「王国」と「民」を持つ、「王」になった、ということを、意味しているのだ。

失うものが、何もない者の「攻め」は、簡単だ。 しかし、自分が、築き上げてきた、大切なものを、守り、育て、そして、次世代へと、繋いでいく。 その、「維持」という名の、静かで、しかし、力強い“戦い”は、単なる、領土拡大よりも、遥かに、高度で、そして、尊い「攻め」の、形なのではないだろうか。

だから、もし、君が、誰かに「守りに入った」と、言われたなら。 胸を、張ればいい。

「ああ、そうだよ」と。 「ようやく、俺も、守るべきものが、できた、ということらしい」と。

君の、キャリアの、本当の“深み”は、その、守るべきものを、手に入れた、その瞬間からこそ、始まっていくのだから。

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