人生論

常に騒がしい世の中で、書くことが自分を救う

2025年8月20日

あなたの“頭の中”は、散らかった部屋になっていないか?

僕たちの頭の中は、常に騒がしい。 昨日上司に言われた一言、未来への漠然とした不安、SNSで見た他人のきらびやかな日常、そして、まだ形にならない無数のアイデアと欲望。それらが、まるで雑然とした部屋のガラクタのように、心のスペースを占領し、僕たちの思考を鈍らせ、精神を消耗させていく。

僕たちは、情報の摂取(インプット)にはあまりにも多くの時間を費やすが、それを整理し、自分にとっての意味を見出す「内省」の時間は、ほとんど持てていない。

そんな混沌とした日々の中で、僕が自分自身を見失わずにいられるのは、たった一つの、極めて地味で、孤独な習慣のおかげだ。 それは、「書く」という行為。

僕にとって、書くことは、誰かに何かを伝えるためのものではない。それは、自分自身を救い出すための、切実な“生存戦略”なのだ。この記事は、そんな僕が「書く」という行為の中に見出した、6つの驚くべき力についての、個人的な記録である。


1. 書くことは、“頭の掃除”である

散らかり放題の部屋を想像してみてほしい。どこに何があるか分からず、必要なものが見つからず、ただそこにいるだけで、気分が滅入ってくる。僕たちの頭の中も、放っておけば、まさにこの状態になる。

「書く」という行為は、この散らかった部屋を片付けるための、唯一にして最高の方法だ。 ノートやPCの前に座り、頭の中にあるものを、一つひとつ、言葉として外に取り出していく。

  • 「なぜ、自分は今、こんなに焦っているのだろうか?」
  • 「本当にやりたいことは、Aではなく、Bなのかもしれない」
  • 「あの人に対して感じているのは、怒りではなく、むしろ嫉妬だったのか」

一つひとつの思考や感情を、まるでガラクタを手に取るように、じっと見つめ、分類し、あるべき場所に置いていく。このプロセスを経ることで、頭の中には、静かで、クリアな空間が生まれる。何かを解決したわけではない。ただ、自分の状態を客観視できただけで、心は驚くほど軽くなるのだ。書くことは、最高のメンタル・デトックスである。


2. 書くことで、心の“本音”が可視化される

僕たちの心の中の声は、実は一つではない。 「こうあるべきだ」という社会の声、「こうなってほしい」という他人の期待の声、そして、「本当は、こうしたい」という、か細い自分自身の本音。これらが、渾然一体となって、僕たちを惑わせる。

「書く」という行為は、この混沌とした声の中から、自分自身の「本音」だけを、ふるいにかける作業だ。

頭の中で考えているだけでは、ごまかせていたことも、いざ文字にしようとすると、その嘘や矛盾が、容赦なく暴かれる。「なんとなく、今の仕事に満足している」と思っていても、その理由を書き出そうとすると、月並みな建前しか出てこない自分に気づく。

逆に、これまで無視してきた、心の奥底にあった小さな願望が、「本当は、自然の中で静かに暮らしたい」といった、力強い言葉として姿を現すことがある。書くことは、自分自身ですら気づいていなかった、魂の輪郭を浮かび上がらせる、一種の“現像作業”なのだ。


3. 書くことは、自分を裏切らない、唯一の時間かもしれない

僕たちの日常は、そのほとんどが「他人のための時間」で構成されている。 会社のための仕事。家族のための家事。友人との付き合い。たとえ一人の時間であっても、SNSを眺めたり、映画を観たりと、誰かが作った情報を「消費」していることが多い。

しかし、「書く」時間だけは、違う。 特に、誰に見せるでもない、自分だけの日記やメモを書いている時間は、100%、純粋に「自分のためだけ」の時間だ。

そこには、他人の評価も、期待も、締め切りも存在しない。ただ、ありのままの自分と、静かに向き合うだけの、濃密な時間。 この、誰にも、何にも邪魔されない「聖域」を持つこと。それ自体が、他人に振り回されがちな現代において、自分自身の主導権を保つための、強力なアンカーとなる。書く時間は、決して、あなたを裏切らない。


4. 感情が“言語”に変わる瞬間の、あの快感

言葉にできない感情は、僕たちの内側で、形のない重りとなって、心を沈ませる。 悲しみ、怒り、不安、嫉妬。それらの正体が分からない時、僕たちは、ただ無力に、その重さに耐えるしかない。

しかし、書くことを通じて、その感情に、ピタリと当てはまる「言葉」が見つかった瞬間。 まるで、魔法のようなことが起きる。

混沌とした霧のような感情に、「〇〇」という名前が与えられた瞬間、それは、僕たちの“コントロール可能”な対象へと変わるのだ。名前がわかれば、対処法を考えることができる。その感情が、なぜ生まれたのかを分析することもできる。

この、無形の感情が、言語という“形”を得る瞬間の、カタルシスにも似た快感。 それは、複雑なパズルが解けた時のような、あるいは、暗闇の中で探し物を見つけた時のような、極めて知的で、根源的な喜びだ。この快感を知ってしまったら、もう、書くことをやめることはできない。


5. なぜ、AIに書かせず、自らの手で書くのか

「その“頭の掃除”、AIに手伝ってもらえばいいじゃないか」 そう思うかもしれない。確かに、AIは、僕たちの乱雑な思考を、美しく、論理的な文章に要約してくれる、素晴らしいツールだ。

しかし、僕がここで語っている「書く」という行為の本質は、美しい文章を“作ること”にはない。 その本質は、美しい文章が生まれるまでの、あの不格好で、泥臭い「格闘のプロセス」そのものにある。

言葉が見つからず、うんうんと唸る時間。書いては消し、消しては書き直す、もどかしい試行錯誤。その非効率で、人間的な格闘の中にこそ、自分自身と向き合い、思考を深め、カタルシスを得るという、かけがえのない価値が宿っている。

AIに書かせることは、まるで、筋トレを誰かに代行してもらうようなものだ。立派な筋肉(=文章)は手に入るかもしれない。しかし、そのプロセスで得られるはずだった、あなた自身の筋力や、達成感は、永遠に手に入らない。


6. 書くことは、生き方を“彫刻”することである

そして、最後に。 この「書く」という習慣を続けることは、自分自身の「生き方」そのものを、少しずつ、しかし確実に、彫り上げていく作業に他ならない。

僕たちは、書くことで、自分の価値観を再確認する。 「僕が大切にしたいのは、これだったな」と。 そして、その価値観を、文章という、目に見える形で記録する。

その記録は、未来の自分が道に迷った時の、信頼できる「羅針盤」となる。 「あの時の自分は、こう考えていた。ならば、今、自分が選ぶべき道は、これだ」と。

書くことは、単なる過去の記録ではない。 それは、未来の自分を方向づけ、自らの哲学を、人生という現実世界に“定着”させていくための、最も力強い、意思表明なのだ。

僕たちは、書くことを通じて、なりたい自分へと、自分自身を、少しずつ彫り上げていく、一人の彫刻家なのである。

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