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資産5000万を達成した私が感じる「幸福の限界効用」と虚無について

順風満帆な人生の真ん中に開いた穴

38歳。

資産は5000万円を超えた。

勤務先は大企業であり再来年には管理職への昇進もほぼ約束されている。

さらに来年中にはMBAの単位も取り終える見込みだ。

客観的な指標だけで見れば私の人生は「上がり」に近い。

家庭も円満で仕事も順調だ。

20代の頃に描いていた未来予想図を遥かに超える成功を手に入れたと言っていい。

苦しい時期もあったがこれまでの努力が確実に実を結び花開いている。

それは紛れもない事実だ。

しかし今私の心を支配しているのは達成感や歓喜ではない。

「ああこんなものか」という乾いた諦念と、底の知れない空虚感だ。

金はある。地位もある。家族もいる。

それなのに全く満たされていない。

この記事は人生というゲームの前半戦を「クリア」してしまった男が直面している、贅沢で残酷なミッドライフ・クライシスについての分析的考察である。

幸福の変換機能が壊れた日

なぜこれほどまでに心が冷めているのか。

その正体は経済学で言う「限界効用の逓減」が私の人生そのものに適用されてしまったからだ。

物質的な豊かさや社会的地位から得られる幸福には明確な「天井」がある。

私は知らぬ間にその天井に頭をぶつけてしまっているのだ。

資産が100万円増えようが1000万円増えようが、生活の質も心の持ちようも何も変わらない。

美味しいものを食べても「ああ美味しいな」と思うだけで、かつてのような魂が震えるような感動はない。

努力が花開くということは蕾が開くまでの「期待」や「ワクワク」が消滅することを意味する。

咲いてしまった花を眺めながら「綺麗だな」とは思うものの、それを手に入れるために費やした膨大な熱量と手に入れた後の静けさのギャップに戸惑っている。

成功とは手に入れた瞬間に陳腐化する。

この残酷なメカニズムに私は打ちのめされているのだ。

20代の私が持っていた“熱”の正体

記憶の糸をたぐり寄せ20代の頃を思い出してみる。

あの頃はもっと単純でそして熱かった。

初めてのボーナスで買った時計や昇格した時の高揚感、少し高いレストランでの食事。

それら一つひとつが鮮烈な喜びをもたらしてくれた。

なぜあの時の幸福感はあんなにも純度が高かったのか。

それは「欠落」があったからだ。

足りないものだらけだったからこそ、何かを得た時の振れ幅が大きかった。

努力すればするほど報酬が得られ、その報酬がダイレクトに幸福感へと変換されていた時期。

あの頃の私は「未来は今よりも良くなる」と無邪気に信じることができた。

今の私はどうだ。

未来が見えてしまっている。

管理職になり年収が上がり資産が増える。

その延長線上にある未来は確かに安泰だが、そこには未知の熱狂が存在しない。

あの頃の欠落感こそが実は生きるエネルギーそのものだったのだと今になって気づかされる。

「持つ」ゲームから「在る」ゲームへの転換

もしかするとこれは多くの人が通る通過儀礼なのかもしれない。

衣食住が足り社会的な承認も得て、マズローの欲求階層説で言うところの「承認欲求」までを満たしきってしまった人間が直面する、「自己実現」への強制的なステージ移行だ。

これまでは「何を得るか(Have)」が幸福の指標だった。

金や地位といった分かりやすい数字が増えていくことに喜びを感じられなくなった今、私はゲームのルールを変えなければならない。

これからは「どう在るか(Be)」が問われるフェーズだ。

MBAの教科書には載っていないし会社の研修でも教えてくれない。

私自身が手探りで答えを見つけるしかない難問が目の前にある。

しかし視点を変えればこれは「自由」だ。

もはや生きるために稼ぐ必要も他人に証明するために出世する必要もない。

私はこれから何に情熱を注ぎ誰と笑いどんな景色を見たいのか。

社会が決めた物差しではなく自分自身の内なる物差しで人生を再定義する時が来たのだ。

この空虚感は停滞ではない。

次のステージへ進むための合図だ。

もしあなたも同じような満たされなさを抱えているのなら、それはあなたがこれまでの人生をサボらず誠実に積み上げてきた何よりの証拠なのだから。

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