ゴールテープを切ったはずの僕が、見失ったもの
かつての僕は、信じていた。 年収が上がれば、もっと幸せになれる。 欲しかったモノを手に入れれば、心は満たされる。 社会的成功という名の山の頂に立てば、そこには、揺るぎない幸福が待っているはずだと。
そして、僕はがむしゃらに働き、走り続けた。気づけば、20代の頃にぼんやりと夢見ていた年収1000万円という一つのゴールテープを切り、ステータスシンボルと言われる高級車も手に入れた。
しかし、その頂から見えた景色は、僕が想像していたものとは、全く違っていた。 手に入れたはずの達成感は、驚くほど速く色褪せ、僕の心は、走り始める前とほとんど変わらない、あるいは、以前よりも渇いた風景を映し出していたのだ。
「なぜだ? 何が足りないんだ?」
その答えを探す中で、僕は一本の動画と出会った。そして、僕がずっと走り続けていたものが、「快楽のトレッドミル」という名の、決してゴールにたどり着くことのない、残酷なランニングマシンであったことを知ったのだ。
この記事は、そんな僕が、無限の欲望という名のトレッドミルから、自らの意思で降りることを決意し、本当の意味での「豊かさ」を見つけ出すまでの、内省の記録である。
第一章:「もっと、もっと」という名の呪い - 僕たちはなぜ、走り続けてしまうのか
心理学には「ヘドニック・トレッドミル(快楽のトレッドミル)」という概念がある。 それは、人間がいかにポジティブな出来事(昇進、年収アップ、結婚など)を経験しても、その幸福感にはすぐに慣れてしまい、結局は元の幸福度のレベルに戻ってしまう、という現象を指す。
僕たちは、幸福という名のゴールを目指して、必死でトレッドミルの上を走る。しかし、どれだけスピードを上げても、ベルトコンベア(=慣れ)が同じ速度で逆走するため、僕たちは永遠に同じ場所から動けない。そして、さらに高い幸福を求めて、さらに速く走ろうとする。これが、僕たちが陥る「もっと、もっと」という名の、終わりのない呪いの正体だ。
この構造を理解した時、僕は愕然とした。 僕がこれまで「成長」や「成功」だと信じてきたものの多くは、ただ、このトレッドミルの速度を上げるための、虚しい努力だったのかもしれない、と。
会社での評価、より高い年収、より大きな家。社会が提示する「成功」の指標を追い求めれば求めるほど、僕たちはこのマシンから降りられなくなる。なぜなら、そこには常に「上がいる」からだ。他人との比較という、無限の燃料が、僕たちを走り続けさせてしまうのだ。
第二章:「モノ」がもたらす幸福の、あまりにも短い“賞味期限”
では、なぜ、あれほど欲しかった高級車やブランド物は、僕の心を永続的に満たしてくれなかったのか。
それは、心理学で言うところの「地位財」と「非地位財」の違いにある。
- 地位財(モノ、お金、役職など): 他人との比較によって満足が得られるもの。高級時計やブランドバッグは、それ自体が機能的な価値を持つと同時に、「他人より優れている」という記号としての価値を持つ。しかし、この満足感は、より高価なモノを持つ他人が現れた瞬間に、色褪せてしまう。賞味期限は、極めて短い。
- 非地位財(経験、健康、愛情、自由など): 他人との比較とは関係なく、それ自体で満足が得られるもの。友人との旅行の思い出、新しいスキルを習得した達成感、心身ともに健康であるという感覚。これらの価値は、他人が何をしていようと、揺らぐことがない。
かつての僕は、この「地位財」を集めることに、人生の貴重なリソースを注ぎ込んでいた。しかし、その刹那的な満足感は、トレッドミルの速度を、ほんの一瞬だけ緩めてくれる鎮痛剤のようなものでしかなかったのだ。
第三章:トレッドミルから降りるための、僕の“人生再設計”
この残酷なゲームのルールを知ってしまった以上、もはや同じ走り方を続けるわけにはいかない。僕は、このトレッドミルから自らの意思で降り、自分だけの道を、自分のペースで歩くための「人生の再設計」を始めた。
① 「所有」から「体験」へ - 資産の投資先を変える
僕の価値観の根幹にあるのは、「人生は、モノを集めるゲームではなく、心揺さぶる経験を積み重ねる旅である」という考え方だ。 だから、僕は、お金という資源の投資先を、消えてなくなる「モノ」から、記憶として永遠に残る「体験」へと、完全にシフトさせた。
- 学び(MBA): 新しい知識は、僕の世界の解像度を上げ、新しい視点を与えてくれる。
- 健康(筋トレ、サウナ): 「動ける身体」という資本がなければ、どんな素晴らしい体験も味わうことはできない。
- 旅: 見知らぬ土地の空気、文化、人々との出会いは、僕の価値観を揺さぶり、豊かにしてくれる。
これらの「体験資本」は、他人と比較する必要のない、僕だけの、誰にも奪われることのない資産となる。
② 「比較」から「内省」へ - 評価軸を、自分の中に取り戻す
他人との比較ゲームから降りるために、僕が意識しているのは、評価の物差しを、常に自分の内側に置くことだ。
僕が目指すのは、「他人より優れていること」ではない。 「昨日の自分より、今日の自分が、ほんの少しでも成長していること」 「他人の期待に応えること」ではなく、「自分自身の“納得感”に従って、選択できていること」
この「内向き」のベクトルが、僕をトレッドミルの呪縛から解放してくれる。
③ 「当たり前」に感謝する - 幸福度の“基準値”をリセットする
そして、最後に、最もシンプルで、最も強力な方法。それは、今、自分がすでに持っているものに、意識的に目を向け、感謝することだ。
健康な身体、安全な住処、語り合える友人や家族。僕たちが当たり前だと思っている日常は、実は奇跡的な幸運の積み重ねの上にある。その事実に気づき、感謝する習慣は、僕たちの幸福度の「基準値」を、強制的にリセットしてくれる。
何かが「足りない」と嘆くのではなく、すでに「満たされている」ことを知る。この視点の転換こそが、無限の欲望という名の渇きを癒す、唯一のオアシスなのだ。
目指すのは「幸福」ではなく、「納得」である
僕たちは、もしかしたら「幸せになる」という目標設定そのものが、間違っているのかもしれない。 なぜなら、「幸福」という感情は、ドーパミンやセロトニンといった脳内物質の作用による、一過性の状態に過ぎないからだ。どんな幸福も、いずれは「慣れ」によって薄れていく。
僕が今、目指しているのは、刹那的な「幸福(Happiness)」ではない。 それは、人生の最後の日に、自分の歩んできた道のりを振り返り、「これで良かったのだ」と、深く頷けるような、静かで、揺るぎない「納得感(Satisfaction)」だ。
トレッドミルの上を、息を切らして走り続ける人生も、一つの選択だろう。 しかし、僕は、そのマシンから降り、たとえ歩みは遅くとも、自分だけの道を、一歩一歩、確かめながら歩いていきたい。
その道端に咲く、名もなき花に気づけるような、そんな人生を。