5倍の幸運が、僕を招き入れた場所

僕の歴史散策は、時に運を試される。今回の舞台は、品川の閑静な高台に佇む、旧薩摩藩主・島津公爵家の本邸。現在は清泉女子大学の本館として使われている、壮麗な洋館だ 。
この館の扉は、普段は固く閉ざされている。その内部を垣間見るチャンスは、年に数回、事前申し込み制で行われる見学ツアーのみ 。そして、その倍率は実に5倍。僕の元に届いた一通の当選通知は、まさに幸運の女神からの招待状だった。
しかし、その招待状が僕を導いたのは、ただの歴史的建造物ではなかった。それは、未来を担う若き知性が歴史を守り伝える「学び舎」であり、僕のような中年男性にとっては、ある種の緊張感を伴う「乙女たちの砦」でもあったのだ。
第一章:男子、アウェーの地に立つ。女子大学という名の異世界探訪
五反田駅から坂を上り、清泉女子大学の門をくぐる。そこに広がるのは、都心とは思えないほどの緑と、静謐な空気。そして、当然ながら、圧倒的に女性が多い空間だ。
もちろん、男子禁制というわけではない。しかし、普段まったく縁のない女子大学という環境は、僕に強烈なアウェー感を抱かせるには十分だった。すれ違う学生たちの朗らかな会話、キャンパスに満ちる華やかな雰囲気。その中で、歴史的建造物目当ての僕は、明らかに異質な存在だ。
この、どこか居心地の悪い、しかし新鮮な緊張感。それは、これから始まる体験が、単なる建築鑑賞ではない、特別なものであることを予感させていた。
第二章:未来への継承者たち。学生ガイドのひたむきさに心を打たれる

この見学ツアーの主役は、建物だけではない。もう一つの主役は、案内役を務めてくれる、この大学の学生たちだ 。
僕たち参加者を迎えてくれたのは、少し緊張した面持ちながらも、背筋をすっと伸ばした、聡明な学生ガイドだった。彼女たちの口から語られる言葉は、決してマニュアルを暗記しただけの、無味乾燥な説明ではなかった。
「こちらのステンドグラスには、島津家の家紋である丸に十の字がデザインされています」 「この大階段は、鹿鳴館と同じ、お客様を優雅にお迎えするための末広がりの造りになっているんです」
その一言ひとことに、この建物を愛し、その歴史を自らの言葉で伝えようとする、ひたむきな情熱が込められていた。一生懸命に、そして誇らしげに、自分たちの学び舎の物語を語るその姿は、非常に頼もしく、そして眩しく映った。
年齢で言えば、僕の半分ほどしかない彼女たちが、100年以上前の建築物の価値を深く理解し、未来へと語り継ごうとしている。その事実に、僕は素直に感心し、心を打たれた。歴史とは、ただ保存されるだけでは意味がない。こうして、次の世代の情熱によって語り継がれて初めて、それは「生きた物語」になるのだと。
第三章:公爵家の栄華と激動の昭和史。館が語る物語

学生たちの素晴らしいガイドに導かれ、僕はようやく、この館そのものと向き合う。設計は、鹿鳴館やニコライ堂も手掛けた、かの有名な英国人建築家ジョサイア・コンドル。彼が最晩年に手掛けた、ルネサンス様式の最高傑作の一つだ 。
建物名 | 旧島津家本邸(現・清泉女子大学本館) |
竣工年 | 1917年(大正6年)落成 |
設計者 | ジョサイア・コンドル |
様式 | ルネサンス様式 |
主な特徴 | 煉瓦造、地上2階地下1階建て。玄関のステンドグラス、大理石の大階段、各部屋の意匠を凝らした暖炉など、コンドル建築の粋を集めた華やかな内装を持つ。国の重要文化財 。 |
内部は、まさに圧巻の一言。玄関扉で僕たちを迎える、島津家の家紋をあしらったアール・ヌーボー調のステンドグラス 。中央ホールに鎮座し、2階へと優雅な曲線を描く大理石の階段 。各部屋の格式に応じて意匠が変えられた、美しいマントルピース(暖炉の装飾) 。そのすべてが、旧大名華族の圧倒的な威光と、大正時代の華やかな文化を、今に伝えている。

しかし、この館が語るのは、栄華の物語だけではない。 財政難から島津家の手を離れ、日本銀行の所有となり、そして戦後はGHQに接収され、将校たちの宿舎として使われたという、激動の昭和史もまた、この壁には刻まれているのだ 。

先日の明治生命館探訪に続き、またしても僕は、GHQが闊歩した歴史の舞台に立つことになった。華やかな公爵邸が、ある日突然、占領軍の管理下に置かれる。その時、この館は、そして人々は、何を思ったのだろうか。
歴史とは、人がいてこそ輝くもの
約1時間のツアーを終え、樹齢200年を超えるというフウの木が立つ庭園を散策する 。振り返れば、白亜の洋館が、初夏の陽光を浴びて静かに佇んでいる。
今回の歴史散策で僕が手に入れたのは、美しい建築の記憶だけではない。 それは、歴史というものが、決して無機質な遺物ではなく、人の情熱によって守られ、語り継がれていく“生きた物語”であるという、確かな実感だった。
5倍の倍率を乗り越えて得たこの貴重な体験。その価値を何倍にも高めてくれたのは、間違いなく、未来を見据えながら過去を語る、あの学生たちの真摯な眼差しだった。
普段は近寄りがたいと思っていた女子大学のキャンパスで、僕は、最高の歴史体験と、ささやかな希望を見つけることができた。これもまた、面白い経験だ。
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