
なぜ、僕たちの「時間」は、いつも足りないのか?
「時間がない」
朝、鳴り響くアラームを止める時も、夜、疲弊しきってベッドに倒れ込む時も、僕たちの頭の中では、この言葉が、呪いのように鳴り響いている。仕事に追われ、人付き合いに追われ、情報の洪水に溺れ、気づけば一日が、一週間が、そして一年が、あっという間に過ぎ去っていく。
僕たちの人生は、あまりにも短い。やるべきことは、山ほどあるのに——。
もし、あなたがそう感じているのなら。 今から約2000年前、古代ローマの哲学者セネカが遺した、一つの手紙を、あなたに紹介したい。その著書『人生の短さについて』の中で、彼は、僕たちと同じように「人生は短い」と嘆く友人パウリヌスに対して、こう、冷徹に、しかし愛を持って、断言するのだ。
「人生が短いのではない。我々が、それを“短くしている”のだ」と。
僕はこの本を読み(ということにして)、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。まるで、2000年前の賢人が、時空を超え、21世紀を生きる僕という、ちっぽけなサラリーマンの日常を、すべて見透かしているかのように感じたからだ。
そして、彼が説く「真に長く生きるための哲学」が、僕がこのブログで、自分自身の価値観として語り続けてきたことと、驚くほど、一致していたのである。
僕たちの時間を盗む「盗人」の正体 - 2000年前から、何も変わっていない現実
セネカは言う。「我々は、人生の大部分を、悪事を働くか、何もしないか、本来の目的とは違うことをして、無駄に過ごしている」と。
では、僕たちの貴重な時間を、一体、誰が、何が、盗んでいるのか。セネカが指摘する「時間の盗人」の姿は、現代社会を生きる僕たちにとって、あまりにも生々しい。
時間の盗人①:「他人のため」という名の、終わりのない奉仕
セネカは、他人の訴訟のために奔走したり、有力者のご機嫌取りに時間を費やしたりする人々を、「最も哀れだ」と断罪する。彼らは、自分のためではなく、他人のために生き、自分の人生を、自ら明け渡しているからだ。
これを、現代に置き換えてみよう。
- 上司の、思いつきの仕事。
- 同僚の、尻拭い。
- 気の進まない、義理だけの飲み会。
- SNSで、他人の“キラキラした人生”を眺め、嫉妬と自己嫌悪に陥る、無意味な時間。
僕たちは、「自分の人生」という、たった一つのプロジェクトの責任者であるはずなのに、その貴重なリソース(時間)を、他人の、どうでもいいプロジェクトのために、あまりにも安易に、浪費しすぎてはいないだろうか。
時間の盗人②:「未来への準備」という名の、現在からの逃避
セネカは、未来への不安から、常に「準備」に追われ、「今」を生きていない人々を、厳しく批判する。彼らは、いつか訪れるかもしれない幸福のために、今、ここにある、確かな幸福を、見過ごし続けている。
これもまた、僕たちの姿そのものではないか。 「老後のために、今は我慢しよう」 「いつか時間ができたら、本当にやりたいことをやろう」
その「いつか」は、本当に来るのだろうか。 僕たちは、未来という名の、不確かな幻想のために、二度と戻らない「今日」という、かけがえのない現実を、犠牲にしてはいないだろうか。
人生という名の“資産” - なぜ、僕たちは時間だけを、浪費するのか
セネカは、極めて鋭い指摘をする。 「誰一人として、自分のお金を他人に分け与えようとする者はいない。しかし、自分の人生(時間)となると、いとも簡単に、多くの人々に分け与えてしまうのだ」と。
僕たちは、自販機で150円のジュースを買うことすら、時にためらう。 しかし、1時間にも及ぶ、結論の出ない、無意味な会議には、何の抵抗もなく参加してしまう。
これは、狂っている。
僕たちは、お金が有限な「資産」であることを知っている。しかし、お金以上に、有限で、二度と取り戻すことのできない「時間」という、究極の資産に対して、あまりにも無頓着すぎる。
本当の豊かさとは、銀行口座の残高ではない。 それは、自分自身の時間を、どれだけ、自分の「納得感」のために、使うことができているか。その、時間配分の“主権”にこそ、宿るのだ。
“長く生きる”ための、3つの戦略 - セネカと僕の、共通項
では、どうすれば、僕たちは、この時間の浪費をやめ、真に「長い」人生を、生きることができるのか。セネカが提示する道筋と、僕が実践してきた戦略は、ここで、完全に一つに重なる。
① 群衆から離れ、自分と向き合う「孤独」な時間を持つ
セネカは、哲学や思索にふける時間を、最も価値ある時間の使い方だと説いた。なぜなら、それだけが、自分自身と向き合い、真に「生きる」ための時間だからだ。
現代の僕たちにとって、それは「内省」の時間に他ならない。 SNSの通知を切り、テレビを消し、誰にも邪魔されない、静かな時間を、意図的に確保する。そして、書くことを通じて、自分は何を望み、何を恐れ、何を価値あるものだと信じているのかを、自問自-答し続ける。 この、孤独で、地味な時間こそが、他人の価値観という名の洪水から、自分自身を守るための、唯一の“防波堤”となる。
② 「過去」を、自分の“資産”として所有する
セネカは言う。「過去だけは、我々の支配から逃れることのない、確かな所有物だ」と。 未来は不確実で、現在は一瞬で過ぎ去る。しかし、僕たちが生きてきた「過去」は、誰にも奪うことのできない、僕たちだけの財産だ。
歴史を学び、過去の賢人たちと対話し、そして、自分自身の過去の成功と失敗を、何度も反芻し、そこから教訓を引き出す。 この「過去を、現在の“知恵”へと転換する力」こそが、僕たちの人生に、深みと、奥行きを与えてくれる。
③ 「今、ここ」に、意識を集中させる
そして、最後に。 時間の浪催をやめるための、最もシンプルな方法は、「今、やっていることに、意識の100%を注ぐこと」だ。 仕事をしている時は、仕事のことだけを考える。 家族と食事をしている時は、その会話と、味わいに、全神経を集中させる。 この、禅の思想にも通じるマインドセットが、僕たちを、未来への不安と、過去への後悔という、二つの巨大な“牢獄”から、解放してくれる。
結論:あなたの人生は、短いのではない。ただ、“盗まれている”だけだ
セネカの言葉は、2000年の時を超えて、僕たちに、厳しい、しかし、希望に満ちた真実を語りかける。
君の人生は、短くなどない。 君には、偉大なことを成し遂げるのに、十分な時間が、与えられている。 ただ、その貴重な時間の大部分が、君の不注意によって、あるいは、他人の悪意によって、日々、“盗まれ”続けているだけなのだ。
その、最大の“時間泥棒”は、誰か。 それは、君の上司でも、社会でもない。 無自覚なまま、自らの時間を、安売りし続けている、君自身なのだ。
さあ、もう、他人に、自分の人生を、盗ませるのは、やめにしよう。 時間の“所有権”を、自分自身の手に、取り戻そう。
そして、その、取り戻した時間を使って、あなただけの、納得感に満ちた、真に「長い」人生を、今日から、歩き始めようではないか。